「源氏物語」・ざっくり話
「宇治十帖」における女の愛と性
1
人間、いくらいい年齢になっても、「愛」や「恋」を口にしたり、想うたりすると、心にある種のときめきを覚えるのは不思議である。若い男女が、喫茶店の片隅などで楽しげにささやきあっているのを見かけたりすると、そういう状況が私にはもう二度ともたらされえないのだという初老のわびしさとともに、「命短し。恋せよをとめ!」と、声のひとつもかけてみたくなる。
最近、とくに若い世代では、やや安売りの傾向があり、まことに苦々しいことであるが、確かに「愛」は美しい。「恋」は心愉しい。そのため、古来、さまざまの恋愛のかたちが、時間、空間を超えて、甘美な響きとともに伝えられてきた。しかし、「恋愛」における情念は、いつの時代でも、いかなる社会においても同じものでありうるだろうか。また男性、女性、それぞれの恋愛に対する情念は、同質のものでありうるだろうか。私は、両性の特質やそれぞれの性を制約する歴史的、社会的状況を無視して、ひとしなみに「恋愛」を論じることは、現代人の軽薄な思いあがりであるような気がする。ある時代の、ある社会には、ある形を持った恋愛があり、しかも、両性がそれぞれに別の情念でもって、その愛を受けとめていると考えるべきではあるまいか。
例えば、「源氏物語」である。日本を代表するこの古典は、光源氏という平安時代の上流貴公子の華麗なる恋愛遍歴を描いたものとして捉えられてきた。そして、大抵の愛読者は、光源氏(後半では薫)の側に立って、この物語を読んできた。しかし、こういう姿勢で、作者・紫式部の真実の声を聞くことができるのであろうか。「源氏物語」は、「女の物語」である。玉上琢弥氏も指摘しているように、「女のために、女が書いた、女についての物語」である。本居宣長は、そのテーマを男と女の間に生まれる「もののあはれ」と規定したが、それもつまりは、女性の側からの恋愛に対する情念である。源氏物語の主人公は、光源氏などの男性ではない。彼らは単なる狂言まわしである。源氏物語の主人公は、男性に翻弄される多数の女君達である。したがって、彼女達の情念をあとづけることが、作者の本当の声を聞くことになるはずである。私が「源氏物語・宇治十帖」によって考察しようとしていることは、平安貴族社会の陰に生きた女性の恋愛観であり、そこにうかがえる女性の人生観(女性の性―さが)についてである。
2
申すまでもなく、「宇治十帖」とは、源氏物語の最後の十帖である。よく言われるように、源氏物語における作者の意識は、全編五十四帖を一貫して、同質、同次元のものであるというわけにはいかない。いま、その成立過程について論考するいとまはないが、少なくとも第一部(三十三帖まで)は、明らかに昔物語の名残りをとどめている。当代一級の貴公子・光源氏に思いを寄せられる幸せな女君達の夢物語である。それは、源氏物語を享受する姫君達に迎合する筋立てである。紫式部は、ひたすら読者の要望に答える形で、第一部を書き続けたのだ。その結果、彼女は思いがけずも、彰子の後宮にまで招聘される栄をかちえたのだった。しかし、第一部を書きあげたことは、彼女自身の精神にとって、何の資するところもなかった。文字にすることは、本来、自己目的的なものである。自己自身の内なる要請を満足させえない文学活動は、畢竟、不毛である。第一部を書きあげた作者が、さらに第二部・第三部と書き進めていった理由も、そのあたりにあったと思われる。殊に宇治十帖を中心とする第三部は、アイドル光源氏の死後の物語である。これまで展開してきたすべてのプロットは、落着した。口うるさい読者の要請はもうない。ここに至って始めて、作者は自分に鬱積したものを思いのままに吐き出せるのだ。第三部は、源氏物語の作者のカタルシスである。だからこそ、この部分には、紫式部の最も書きたかったこと、つまり、彼女の人生観上の本音がうかがえると思うのだ。私が、宇治十帖を取り上げた理由はそこにある。
「宇治十帖」における女の愛と性
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人間、いくらいい年齢になっても、「愛」や「恋」を口にしたり、想うたりすると、心にある種のときめきを覚えるのは不思議である。若い男女が、喫茶店の片隅などで楽しげにささやきあっているのを見かけたりすると、そういう状況が私にはもう二度ともたらされえないのだという初老のわびしさとともに、「命短し。恋せよをとめ!」と、声のひとつもかけてみたくなる。
最近、とくに若い世代では、やや安売りの傾向があり、まことに苦々しいことであるが、確かに「愛」は美しい。「恋」は心愉しい。そのため、古来、さまざまの恋愛のかたちが、時間、空間を超えて、甘美な響きとともに伝えられてきた。しかし、「恋愛」における情念は、いつの時代でも、いかなる社会においても同じものでありうるだろうか。また男性、女性、それぞれの恋愛に対する情念は、同質のものでありうるだろうか。私は、両性の特質やそれぞれの性を制約する歴史的、社会的状況を無視して、ひとしなみに「恋愛」を論じることは、現代人の軽薄な思いあがりであるような気がする。ある時代の、ある社会には、ある形を持った恋愛があり、しかも、両性がそれぞれに別の情念でもって、その愛を受けとめていると考えるべきではあるまいか。
例えば、「源氏物語」である。日本を代表するこの古典は、光源氏という平安時代の上流貴公子の華麗なる恋愛遍歴を描いたものとして捉えられてきた。そして、大抵の愛読者は、光源氏(後半では薫)の側に立って、この物語を読んできた。しかし、こういう姿勢で、作者・紫式部の真実の声を聞くことができるのであろうか。「源氏物語」は、「女の物語」である。玉上琢弥氏も指摘しているように、「女のために、女が書いた、女についての物語」である。本居宣長は、そのテーマを男と女の間に生まれる「もののあはれ」と規定したが、それもつまりは、女性の側からの恋愛に対する情念である。源氏物語の主人公は、光源氏などの男性ではない。彼らは単なる狂言まわしである。源氏物語の主人公は、男性に翻弄される多数の女君達である。したがって、彼女達の情念をあとづけることが、作者の本当の声を聞くことになるはずである。私が「源氏物語・宇治十帖」によって考察しようとしていることは、平安貴族社会の陰に生きた女性の恋愛観であり、そこにうかがえる女性の人生観(女性の性―さが)についてである。
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申すまでもなく、「宇治十帖」とは、源氏物語の最後の十帖である。よく言われるように、源氏物語における作者の意識は、全編五十四帖を一貫して、同質、同次元のものであるというわけにはいかない。いま、その成立過程について論考するいとまはないが、少なくとも第一部(三十三帖まで)は、明らかに昔物語の名残りをとどめている。当代一級の貴公子・光源氏に思いを寄せられる幸せな女君達の夢物語である。それは、源氏物語を享受する姫君達に迎合する筋立てである。紫式部は、ひたすら読者の要望に答える形で、第一部を書き続けたのだ。その結果、彼女は思いがけずも、彰子の後宮にまで招聘される栄をかちえたのだった。しかし、第一部を書きあげたことは、彼女自身の精神にとって、何の資するところもなかった。文字にすることは、本来、自己目的的なものである。自己自身の内なる要請を満足させえない文学活動は、畢竟、不毛である。第一部を書きあげた作者が、さらに第二部・第三部と書き進めていった理由も、そのあたりにあったと思われる。殊に宇治十帖を中心とする第三部は、アイドル光源氏の死後の物語である。これまで展開してきたすべてのプロットは、落着した。口うるさい読者の要請はもうない。ここに至って始めて、作者は自分に鬱積したものを思いのままに吐き出せるのだ。第三部は、源氏物語の作者のカタルシスである。だからこそ、この部分には、紫式部の最も書きたかったこと、つまり、彼女の人生観上の本音がうかがえると思うのだ。私が、宇治十帖を取り上げた理由はそこにある。