竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

「宇治十帖」における女の愛と性(さが)

2012-10-30 09:57:14 | 日記
 「源氏物語」・ざっくり話

 「宇治十帖」における女の愛と性

  1
 人間、いくらいい年齢になっても、「愛」や「恋」を口にしたり、想うたりすると、心にある種のときめきを覚えるのは不思議である。若い男女が、喫茶店の片隅などで楽しげにささやきあっているのを見かけたりすると、そういう状況が私にはもう二度ともたらされえないのだという初老のわびしさとともに、「命短し。恋せよをとめ!」と、声のひとつもかけてみたくなる。
 最近、とくに若い世代では、やや安売りの傾向があり、まことに苦々しいことであるが、確かに「愛」は美しい。「恋」は心愉しい。そのため、古来、さまざまの恋愛のかたちが、時間、空間を超えて、甘美な響きとともに伝えられてきた。しかし、「恋愛」における情念は、いつの時代でも、いかなる社会においても同じものでありうるだろうか。また男性、女性、それぞれの恋愛に対する情念は、同質のものでありうるだろうか。私は、両性の特質やそれぞれの性を制約する歴史的、社会的状況を無視して、ひとしなみに「恋愛」を論じることは、現代人の軽薄な思いあがりであるような気がする。ある時代の、ある社会には、ある形を持った恋愛があり、しかも、両性がそれぞれに別の情念でもって、その愛を受けとめていると考えるべきではあるまいか。
 例えば、「源氏物語」である。日本を代表するこの古典は、光源氏という平安時代の上流貴公子の華麗なる恋愛遍歴を描いたものとして捉えられてきた。そして、大抵の愛読者は、光源氏(後半では薫)の側に立って、この物語を読んできた。しかし、こういう姿勢で、作者・紫式部の真実の声を聞くことができるのであろうか。「源氏物語」は、「女の物語」である。玉上琢弥氏も指摘しているように、「女のために、女が書いた、女についての物語」である。本居宣長は、そのテーマを男と女の間に生まれる「もののあはれ」と規定したが、それもつまりは、女性の側からの恋愛に対する情念である。源氏物語の主人公は、光源氏などの男性ではない。彼らは単なる狂言まわしである。源氏物語の主人公は、男性に翻弄される多数の女君達である。したがって、彼女達の情念をあとづけることが、作者の本当の声を聞くことになるはずである。私が「源氏物語・宇治十帖」によって考察しようとしていることは、平安貴族社会の陰に生きた女性の恋愛観であり、そこにうかがえる女性の人生観(女性の性―さが)についてである。          
  2
 申すまでもなく、「宇治十帖」とは、源氏物語の最後の十帖である。よく言われるように、源氏物語における作者の意識は、全編五十四帖を一貫して、同質、同次元のものであるというわけにはいかない。いま、その成立過程について論考するいとまはないが、少なくとも第一部(三十三帖まで)は、明らかに昔物語の名残りをとどめている。当代一級の貴公子・光源氏に思いを寄せられる幸せな女君達の夢物語である。それは、源氏物語を享受する姫君達に迎合する筋立てである。紫式部は、ひたすら読者の要望に答える形で、第一部を書き続けたのだ。その結果、彼女は思いがけずも、彰子の後宮にまで招聘される栄をかちえたのだった。しかし、第一部を書きあげたことは、彼女自身の精神にとって、何の資するところもなかった。文字にすることは、本来、自己目的的なものである。自己自身の内なる要請を満足させえない文学活動は、畢竟、不毛である。第一部を書きあげた作者が、さらに第二部・第三部と書き進めていった理由も、そのあたりにあったと思われる。殊に宇治十帖を中心とする第三部は、アイドル光源氏の死後の物語である。これまで展開してきたすべてのプロットは、落着した。口うるさい読者の要請はもうない。ここに至って始めて、作者は自分に鬱積したものを思いのままに吐き出せるのだ。第三部は、源氏物語の作者のカタルシスである。だからこそ、この部分には、紫式部の最も書きたかったこと、つまり、彼女の人生観上の本音がうかがえると思うのだ。私が、宇治十帖を取り上げた理由はそこにある。

光源氏の老後(下)

2012-10-25 13:05:30 | 日記
「源氏物語」・ざっくり話

  光源氏の老後(下)
 
 光源氏の孤愁(紫の上の死)

 翌年二月、女三の宮が不義の子・薫を出産する。その産養の行事のさなかに女三の宮は出家してしまう。残された柏木にも生きる気力はもう残っていなかった。実の父母不在のなかで、薫誕生を祝う五十日の祝いが盛大に催される。光源氏は、初めて「わが子」薫と直面する。抱き上げた赤児に柏木の面影を見出し、かすかにたじろぐが、その純真なまなざしのなかに、のびやかな生命力を感じて、すべてを許そうという気持ちになる。こうして、薫を抱く自分の姿こそ、かつて、罪の子・冷泉を抱くわが父・桐壺帝の姿でなかったか。光源氏は、みずからの過去の罪に、いまさらながら身のすくむ思いがするのだ。
 その数年後、長く連れ添った紫の上がついに亡くなってしまう。風の激しく吹く八月十四日の夕刻であった。光源氏は茫然自失し、四か月経った新年になっても、悲しみは癒えなかった。第四十帖幻巻は、紫の上追悼の一年歳時記風に綴ったものである。四方四季の運行を具現する六条院は、日本人の理想の空間であったが、いまや源氏は、どの景物にふれても、違和感と疎外感を抱くだけで、虚しく季節だけが知らず顔に過ぎていく。女三の宮はもとより、明石の上、紫の上に仕えていた女房たち、さらには息子夕霧や赤児の「薫」とさえ心安らかに対応できない。もはや見かけの演技を続ける気力もなく、ありのままの弱さをさらけ出すほかないのだ。第二部の最終帖雲隠巻は、巻名だけあって、本文はない。読者に光源氏の出家とその死を暗示するだけである。

 以前、わたしたちの歴史・文学同好会「山河の会」は、研修旅行の「源氏物語巡行」で、紫式部の生家址とされる櫨山寺を訪ねた。折しもその年は「源氏物語千年紀」の年で、見学者でにぎわっていたが、東側の河原町通りの騒音がかすかに伝わってくる、ひっそりした閑静な所であった。広い敷台の玄関を入ってすぐ右に、廊下に面してこじんまりした庭がある。白砂のなかに州浜状に苔が生え、その中に桔梗が植えられていた。秋になるとひっそりと紫の花を開かせるのであろう。
 受領とはいえ、父祖伝来の文芸の香り高い家に育った紫式部は、桔梗のようにけだかく、気品をもって生きた。幼くして母を喪い、三年にも満たぬ結婚生活で寡婦となった侘しさも、物語を書くことで紛らせた。予期せぬ噂が広まって、時の権力者道長の娘、中宮彰子のもとに出仕したが、華やぎあふれる宮廷生活の渦中にあって、泰平を謳歌する貴族社会のなかに漂う暗鬱の気分に辟易する。宮廷サロンでもてはやされる「王権の興亡」や「愛恋の遍歴」の物語を書き綴ることには飽きてきた。これからは、世評はどうあれ、自分自身が本当に書きたいことを書かねばならぬ。そのためには、人間存在の本質にかかわる種々相を見つめ、生身の人間の本音や苦悩を暴かねばならぬ。
 かくして、天才紫式部は人生の真実を求めて、「源氏物語第二部」を書き継いできた。主人公光源氏は、最期に人間の本性を曝け出して、六条院から姿を隠した。あとに残されたのは虚しい絶望感だけである。王権や愛恋の世界と決別し、求道に生きることはできないか。紫式部はさらに余力をかきたて、祈りをこめていわゆる「宇治十帖」を書き始めたに違いない。新たな構想で書きはじめた「源氏物語第三部」の考察については、別稿に譲りたい。
                     

光源氏の老後(中)

2012-10-19 09:04:48 | 日記
源氏物語・ざっくり話

  光源氏の老後(中) 

 六条院の欺瞞(明石一族の執念)

 光源氏の四十賀の翌年三月、東宮に入内していた明石女御が六条院で男御子を出産する。その産屋は、実母明石の上の住む冬の町に設けられていた。これまで明石の上は、女御の義母・紫の上に遠慮して、近しく娘と顔を合わせることもできなかったが、年老いて惚け気味の祖母の明石尼君は、孫娘の近くに侍ることを喜び、「強い語り」のように明石での姫君誕生や母子の別れなどの昔話をする。初めての出産を控えた明石の女御は、あらためて血縁の繋がりの強さを実感する。これまでは育ての母である紫の上だけを慕い、生みの母には通り一遍の気持ちで対していた自分が悔やまれた。
 六条院は、光源氏の政治的配慮によって構築された養子・養女による虚構の空間である。秋の町に住む養女の冷泉帝妃・秋好中宮の実母は六条御息所であり、夏の町には、生母葵の上を喪った夕霧が花散里を代母として住んでいる。明石の女御の出産は、はからずもこのような六条院体制の欺瞞を暴露させる結果になった。
 皇子誕生の報に接して届いた、明石入道からの遺書ともいうべき便りには、皇子出生は自分の執念によるもので、そのめでたさは、光源氏ではなく、明石入道一族のものであることが強く主張されていた。六条院の中で最も低い地位にあり、「隠れの方」とされていた明石の上こそ、光源氏の将来の栄華を補償するキーパーソンであったのだ。

 六条院の亀裂(女三の宮と柏木の不義)

 明石の女御が皇子を出産し、内裏の東宮のもとに帰参して、六条院にようやく有閑の日々がもどった春の夕刻、春の町で、夕霧・柏木(従兄弟同士)などの若い世代によって蹴鞠がおこなわれた。ひとしきり鮮やかな身のこなしと足さばきを競ったあと、ふたりが寝殿の階段の中ほどに座ってひと休みしていると、猫が戯れて、御簾を引き上げたため、思いがけず女三の宮を垣間見てしまう。その姿は、かねてから女三宮に焦がれていた柏木の目にくっきりと刻みこまれ、その後柏木はその幻影を追い求め続けるようになる。
 それから六年後、冷泉帝が退位して女三の宮の弟で朱雀院の子の東宮が今上天皇として即位する。紫の上が突然発病し、その療養のため、光源氏とともに二条院に移る。ひとり残されて孤閨を守っていた女三の宮のところに柏木は強引に近づき、密通する。その事実は、女三の宮の手落ちからすぐに源氏に知られてしまう。やがて、女三の宮は懐妊し、源氏の怨みのまなざしに射すくめられた柏木は、そのまま病に臥せってしまう。女三の宮と柏木には、当初から心の通い合いと信頼がなく、愛恋と言えるものではなかったが、光源氏は、惨めなコキュ(寝取られ男)となった。自分の立場上、このことが世間に漏れないように硬く隠蔽しなければならない。そのうえ娘婿として、日延べになっていた朱雀院の五十賀も主催しなければならない。これまで六条院の秩序を支えてきた援護者もなく、光源氏は、ひとり、しのびよる老いと戦いながら、凄絶な執念の演技を繰り広げるのだ。


光源氏の老後(上)

2012-10-12 09:07:14 | 日記
 「源氏物語」・ざっくり話
  
    光源氏の老後(上)

   六条院の黄昏

 すでに前稿の「愛恋大河小説・源氏物語の構想」と「光源氏の野心」で、指摘したように、「源氏物語五十四帖」の中で、広く知られているのは、その第一部(桐壺巻から藤裏葉巻まで)の三十三帖である。この部分は、要するに、臣籍に降下した皇子・光源氏が、宿命的な愛恋遍歴のすえ、准太上天皇として復権をはたし、六条院という、春夏秋冬の四つの町を持つ広大な邸宅を構築するまでの話である。これは、基本的には昔物語の結構を踏襲するもので、このままめでたく完結となるはずのものである。しかし、作者・紫式部はそこで筆を擱こうとはしなかった。
 宮廷の貴公子や女君にもてはやされ、読者に阿(おもね)るように書き綴ってきた王権の興亡や色好みの渦巻く世界は、三十歳を過ぎた子持ちの寡婦の心に滲んでくる人生の悲哀感や厭世的情感とは相容れないものになっていた。宮廷貴族の要望に従って、自在にお気に入りの曲を提供してきたモーツアルトが、三十代になって、曲想を劇的に転換して独自の調べでその真率な心情を吐露したように、紫式部も自ら創り上げた主人公・光源氏をこのまま栄華に酔いしれさせておくわけにはいかなかった。人の宿命として、六条院の公達や女君の身近にしのびよる老いと病いと死を彼にも見つめさせようとしたのだ。
 この稿では、主に三田村雅子「源氏物語―物語空間を読む」(ちくま新書)を道案内に頼んで、源氏物語の第二部(若菜上巻から幻巻まで)の八帖をとりあげ、その構想をあとづけてみたい。

 愛恋の違和(女三の宮の降嫁)

 四十賀を迎える前年、光源氏は、准太上天皇という異例の宣旨を受け、母を異にする兄・朱雀院と世を欺く罪の子・冷泉帝と、二方揃っての六条院行幸を仰いだ。皇位を継承しながら、かねてから弟に敗北感を抱いていた朱雀院は、その直後から病を発し出家を決意し、あとに遺される鍾愛の娘、女三の宮(十四歳)の処遇に苦慮したあげく、あえて、この栄華を極めた異母弟に嫁がせようとする。当初、光源氏は自分の年齢や六条院の妻たちのことを考えて躊躇するが、結局のところそれを受け入れる。女三の宮が、この上ない後見のある皇女であること、さらには禁断の恋人・藤壺の姪であることに心が動いたのだ。この結婚が、ゆくゆくは六条院の均衡を揺るがす元凶になるとも知らず、四十という初老を迎えながら、自分はまだ「色好み」の現役と認められていることが、むしろ得意であったのかもしれない。
 これまで、実質上の正妻として六条院の春の町の寝殿に起居していた紫の上は、この際、屈辱を押し殺しながら対の屋に移り、禁中より降嫁した「正妻」を立てようとする。だが、女三の宮は、新妻とは言いながら、ことのほか「かたなり(未成熟)」で、あらゆる点で「いはけなく(幼稚)」、光源氏を落胆させる。飽き足りない光源氏は、若い頃の禁忌の恋の息詰まる緊張が忘れられず、朱雀院のいま一人の寵妃・朧月夜のことを思い出す。そして、朱雀院の出家後、彼女は母の実家に蟄居していることを聞きつけ、再会を果たす。しかしながら、十五年ぶりに会う朧月夜は、逆にあまりに「けちかく(狎れ狎れしく)」「ろうろうし(老練)」かった。互いの愛恋の情に違和感が漂い、もはや、かつてのように、妖しく心をそそのかすものはなかった。ふたりの後朝の別れは、まさに取り返しようのない青春の挽歌となった。

光源氏の野心(下)

2012-10-05 09:18:38 | 日記
 「源氏物語」・ざっくり話

   光源氏の野心(下)

  作者・紫式部のもくろみ

 優れた古典は、ひとり歩きする。ひとたび作者の手を離れてしまうと、読者がそこから何を読み取ろうと、いっさい関与できない。世界の古典・「源氏物語」も、それを「愛恋物語」と読む者もあれば、「王権物語」と解釈する者もある。それは読者の勝手である。
 それにしても、原作者・紫式部はどのようなもくろみで源氏物語を書こうとしたのであろうか。そもそも一介の後宮の女房が、王権の興亡などというすぐれて政治的なテーマを取り上げ、自在にプロットを展開させることができるであろうか。
 胸をときめかせながら「源氏物語」を読んだ「更級日記」の作者のことは、よく知られているが、紫式部はそのような「女のため」だけにこの作品を書いたのではない。「紫式部日記」によれば、千年前の昔、中宮彰子が待望の皇子(敦成親王)を出産し、実家の道長邸・土御門殿から内裏へ帰る際の一条帝への手土産品として、源氏物語の新本を製作したことが記されている。一条帝は、かねがね「源氏物語は日本紀に匹敵する。」と賞賛していた。少なくとも、紫式部は博識で聡明な一条帝と写本製作のスポンサーの道長を、最も大事な愛読者として想定していたことは間違いない。
 前稿でも指摘した通り、源氏物語の時代は、まさに王朝の秋。花山天皇から一条天皇への皇位の継承と兼家からその子、道隆・道兼・道長へと続く摂関家の権力の交替は、日本史上でも稀な激変のドラマであった。花山帝にせよ、一条帝にせよ、決して摂関家のロボットではなかった。少なくとも皇位にある時は、親政をめざして積極的に政務を執っていた。そして、その后妃たちに対しては、激しい愛恋の情を抱いていた。紫式部は、すぐ近いところで、まさに近所話のようにその顛末を頻繁に耳にしながら後宮に仕えていた。源氏物語のモデルとすべき人物、プロットに取り込むべき事件はすぐそばにあった。
 紫式部はすべてを知っていた。華やぎあふれる宮廷生活の渦中にありながら作家としての人間凝視、人間批判の目は鋭さを増した。得意の自己韜晦のポーズをとりながら、当り障りのない古女房の語り口を借りて書き綴っているが、世才(大和魂)にたけた当代一流の男性の読者には、「愛恋絵巻」の裏に見え隠れする王権の興亡をめぐる男たちの死闘が、身につまされて感じとれたにちがいない。だからこそ、政権を握っても、皇室の権威を無視できない武士たちは、「源氏物語」をバイブルのように大切に扱ってきたのだ。