竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

「万葉集」の女性歌人ー大伴坂上郎女(2)

2015-02-24 13:41:52 | 日記
大伴坂上郎女(2)

730年、大伴旅人は、太宰帥を兼務したまま大納言を拝命して帰京の途についた。そして、まもなく佐保の邸宅で死没した。都に還ってからも、大伴坂上郎女は、家持を補佐しながら社交界を仕切った。しだい藤原氏の勢力に圧倒されてきた大伴氏の勢いを挽回するために、時には天皇に献歌までした。
                                 4
721 天皇に献る歌 大伴坂上郎女、佐保の宅に在りて作る
あしひきの 山にしをれば 風流(みやび)なみ
      我がするわざを とがめたまふな       (巻四相聞)
(何しろ山住みの身の無粋者でございますから、都のみやびにうといままに私がいたしますこの振舞いを、失礼だとお咎め下さいますな。)
 
母親としての周到な気遣いのすえ、大嬢は大伴家持と二嬢は大伴駿河麿と結婚させた。殊に自分の甥でありながら母親のように養育し、長女の婿になった家持に対する思いは複雑であった。
653 大伴宿禰駿河麻呂が歌
心には 忘れぬものを たまさかに 
    見ぬ日さまねく 月ぞ経にける          (巻四相聞)
(心では忘れることとてないのに、思いのほかにお逢いしないままずるずると一月もたってしまいました。)
656 大伴坂上郎女が歌
我れのみぞ 君には恋ふる 我が背子が
      恋ふといふことは 言のなぐさぞ       (巻四相聞)
(私の方だけですよ、あなたに恋い焦がれているのは。あなたのおっしゃる恋い焦がれるという言葉は、口先だけの慰めとわかっています。)

979 大伴坂上郎女、甥家持の佐保より西の宅に還帰るに与ふる歌
我背子が 着る衣薄し 佐保風は
     いたくな吹きそ 家に至るまで          (巻六雑歌)
(この人の着ている着物は薄い。佐保風はひどくふかないでおくれ。この人が家に着くまでは。)
1620 あらたまの 月立つまでに 来まさねば
          夢にし見つつ 思ひぞ我がせし   (巻八秋相聞)
(月が改まるまでもおいでにならないので、いつも夢に見ては、あなたのことをとても恋しく私はおもっていたのですよ。)

3928 大伴宿禰家持、天平十八年の閏の七月をもちて、越中の国の守に任けらゆ。すなはち七月を取りて任所に赴く。時に、姑大伴氏坂上郎女、家持に贈る歌
今のごと 恋しく君が 思ほえば
     いかにかもせむ するすべのなさ        (巻十七) 
(今からもう、こんなにもあなたが恋しいのなら、この先どうすればよいのでしょう。どうにもならないほどせつないことです。)



「万葉集」の女性歌人ー大伴坂上郎女(1)

2015-02-16 10:19:46 | 日記
Ⅱ 大伴坂上郎女(1)

 大伴安麿(佐保大納言卿)の娘として生まれた。旅人の異母妹。「万葉集」の最終編集者とされている家持の叔母であり、のちに姑になった。若いころから美貌と才女的な気質を持ち、詠歌にも練達していたので、宮廷貴族と艶やかな交友を持った。坂上の里に家居し、但馬皇女と死別した穂積皇子や不比等の四男藤原麻呂の寵を受けた。のちに異母兄・大伴宿奈麻呂の妻となり、坂上大嬢と二嬢を生み、寡婦となった。「万葉集第四期」の代表的歌人で、短歌77首、長歌6首、旋頭歌1首が採録されている。

116 但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、竊かに穂積皇子に接ひ、事すでに形はれて作らす歌
人言(ひとごと)を 繁み言痛(こちた)み おのが世に 
     いまだ渡らぬ 朝(あさ)川を渡る  (巻二相聞)
 (人の噂が繁くうるさいので、生まれてこの方渡ったこともない、まだ暗い朝の川を渡るのです。)                       
203 但馬皇女の薨ぜし後に、穂積皇子、冬の日に雪のふるに御墓を遙望し悲傷流涕して作らす歌
降る雪は あはにな降りそ 吉隠(よなばり)の
     猪養(ゐかひ)の岡の 寒くあらまくに (巻二挽歌)
 (降る雪よ、たんとは降ってくれるな。吉隠の猪養の岡が寒いであろうから。)

524 藤原麻呂が大伴郎女に贈る歌
むし衾(ふすま) なごやが下に 伏せれども 
     妹とし寝ねば 肌し寒しも (巻四相聞)
 (むしで作ったふかふかと暖かい夜着をかぶって寝ているが、妹と一緒に寝るわけではないから、やはりなんとなく肌寒い気がする。)
525 佐保川の 小石踏み渡り ぬばたまの     大伴坂上郎女
    黒馬来る夜は 年にもあらぬか     (巻四相聞)
 (佐保川の小石の飛び石を踏み渡ってひっそりとあなたを乗せた黒馬の来る夜は、今年中はもうないのでしょうか。)

 727年、大伴旅人は、63歳で、太宰帥として赴任したが、その翌年嫡妻の大伴郎女が他界した。代わりに大伴坂上郎女が大宰府に来て、「家刀自」として家事や社交を仕切ることになった。たちまち大宰府の官人たちのマドンナになった。
560 太宰大監大伴宿禰百代(ももよ)が恋の歌
恋ひ死なむ 後(のち)は何せむ 生ける日の ためこそ妹を 見まく欲りすれ   (巻四相聞)
 (恋い死に死んでしまったらなんの意味がありましょう。生きている今の日のためにこそあなたの顔を見たく思うのです。)
563 大伴坂上郎女が歌
黒髪に 白髪交じり 老ゆるまで かかる恋には いまだ逢はなくに         (巻四相聞)
 (黒髪に白髪がまじるこの老年になるまで、これほど激しい恋心に責められたことはなかったのですよ。)



「万葉集」の女性歌人ー額田王(2)

2015-02-10 10:27:17 | 日記
「万葉集」の女性歌人ー額田王(2)

20 天皇、蒲生野に遊猟したまふ時に、額田王が作る歌
あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き
      野守(のもり)は見ずや 君が袖振る     (巻一雑歌)
まあ紫草の栽培されている標野を行きながらそんなことをなさって、野守が見るではありませんか。あなたはそんなに袖をお振りになったりして。
21皇太子の答へたまふ御歌 明日香宮に天の下知らしめす天皇謚して天武天皇といふ
紫草(むらさきの)の にほへる妹(いも)を 憎くあらば
      人妻故(ゆゑ)に 我れ恋ひめやも      (巻一雑歌)
むらさきのように美しいあなたが好きでなかったら、人妻と知りながら、私はどうしてあなたに心ひかれたりしようか。
 668年、中大兄は、斉明天皇没後7年間の称制から天智天皇として即位。
同年5月5日、蒲生野(琵琶湖東岸)で、天皇がその皇弟(大海人皇子)や諸王、群臣たちとともに「薬猟」と呼ばれる行楽的な宮中行事を催した時に、詠み交わされた歌である。
天皇の後宮に身を置く今は、初恋の皇子への思慕を断ち切ろうとしている額田王に、大海人皇子が抑えきれない内奥の叫びを吐露した歌とされている。
 しかし、この歌は、「相聞」ではなく「雑歌」とされている。どうやら、心奥に秘めた恋情の表出などの甘美な秘密のやりとりではないようだ。「おそらく、(薬狩の後の)宴会の乱酔に、天武が無骨な舞を舞った、その袖のふりかたを恋愛の意志表示とみたてて、才女の額田王がからかいかけた。どう少なく見積もっても、この時すでに四十歳?になろうとしている額田王に対して、天武もさるもの、「にほへる妹」などと、しっぺい返しをしたのである」(池田弥三郎)   後の歌も、美貌の妻を独占してしまった天智天皇に、皇子の羨望(間接的賛美)の想いを伝える儀礼歌であろう。

488 額田王、近江天皇を思ひて作る歌
君待つと 我が恋ひ居れば 我がやどの
簾(すだれ)動かし 秋の風吹く        (巻四相聞) 
あの方のおいでを待って慕わしく思っていると、家の戸口のすだれをさやさやと動かして秋の風が吹く。
489 鏡王女が作る歌
風をだに 恋ふるは羨(とも)し 風をだに
     来むとし待たば 何か嘆かむ     (巻四相聞)
風の音にさえ恋心がゆさすぶられるとは羨ましいこと。風にさえ胸ときめかして、もしやおいでかと待つというのなら、何を嘆くことがありましょう。

 額田王の姉とされる鏡王女は、初め天智天皇と結婚していたが、後に藤原鎌足の妻となり、不比等を生んだ。
 額田王の歌は、近江に都を移したあと、病気がちで久しく訪れのない天智天皇を偲んで作った歌である。「じっと秋風の音を聞いている。そのかすかなさびしい音を感にたえて聞いている。待つ身の悶えでなく、秋風に人待つ情趣である。」(田辺幸雄)後の歌は、すでに夫の鎌足と死別していた鏡王女が、前の歌に唱和したものであろう。「(額田王に対して、自分は)もはや、夫が訪れてくる望みはまったくない。だから、待つという期待の中にあるあなたは、むしろ羨ましいと、妹の幸福を祈る心があるのかも知れない。」(山本健吉)
 ただし、この唱和歌は、巻一でなく追補された巻四に登載されており、王女姉妹の自詠の歌でなく、後人の「仮託の歌」かもしれない。。 
 669年 藤原鎌足 病没。671年秋頃から天智天皇 病を発して衰弱。
 671年 大海人皇子は後事を託す天智天皇に辞去し吉野へ 天智天皇崩御
 672年 壬申の乱が勃発  大友皇子自害。
 673年 天武天皇即位

「万葉集」の女性歌人ー額田王(1)

2015-02-03 15:50:14 | 日記
個人的な事情について
前回まで、「日本のアンソロジストたちー大伴家持伝」を掲載していたが、先頃、地元の女性団体から「万葉集の女性歌人について」の講話の依頼をうけた。拙著「日本人のこころの歌」に取り上げた万葉集の女性歌人の幾人かについて、分かりやすく話してほしいという意向である。早速、その教案とレジメを作成しなければならない。ついては、しばらく「家持伝」を休載して、「女性歌人」の歌を「耕読」したい。額田王と大伴坂上郎女を取り上げる予定である。手前勝手な個人的事情をお汲み取り願いたい。

 「万葉集」の女性歌人
        ――額田王と大伴坂上郎女
1、額田王
 大化の改新から壬申の乱を経て、日本が古代国家を形成してゆく7世紀の激動期を生きた「万葉集」随一の女流歌人。鏡王の娘とされ、はじめに大海人皇子(天武天皇)の妻となり十市皇女を生み、後に中大兄皇子(天智天皇)に召された。生まれも身分も不詳だが、近江朝の宮廷神事に携わる「御言(みこと)持ち歌人」か?「万葉集」に、長短歌十二首が採録されている。各歌に付した数字は「国歌大観」の歌番号である。

8 額田王(ぬかたのおほきみ)が歌
熟田津(にきたつ)に 船乗りせんと 月待てば
     潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな        (巻一雑歌)
熟田津で、船出をしようと月の出るのを待っていると、月も出、潮の具合もよくなった。さあ、今は漕ぎ出そう。
 661年、朝鮮半島で唐・新羅に侵略されていた日本の友好国・百済の救援に赴くため、高齢の女帝・斉明天皇の船団(皇子の中大兄・大海人も妻女を同伴して乗船していた)が、難波を進発し、寄港地の伊予・熟田津から筑紫の大本営に向けて、船出(あるいは、そのための禊ぎの儀式)をする時、供奉していた額田王(ぬかたのおほきみ)が女帝に代わって進発の宣言をした歌である。「既に真夜中を過ぎて、冴えかえった寒さの感じられる頃、漆を流したような真っ暗な闇に、有明の月の光がさしそめた光景」(澤瀉久孝)の中で、「船出の刹那を待ち続け、息をのんで勢ぞろいする宮廷集団を、一声のもとに動かす王者の貫禄がみなぎっている。」(伊藤博) 
同年7月、遠征軍派遣の直前、斉明天皇が崩御。663年、派遣軍は白村江で唐・新羅軍に大敗。
中大兄の称制時代(6年間)は、敗戦収拾、対外防備(壱岐・対馬に防人配置  大宰府に水城)、国内体制の整備に奔走することになった。

18  額田王、近江の国に下る時に作る歌  反歌
三輪山を しかも隠すか 雲だにも 
     心あらなも 隠さふべしや        (巻一雑歌)
三輪山をなんでそんなにも隠すのか。せめて雲だけでも思いやりがあってほしいものだ。隠したりしてよいものか。

 667年、中大兄は、局面打開のため都を大和から要害の地・近江(大津)に遷都。その途上、国境の奈良山を越える神事で、額田王が詠んだ歌である