竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

感動のなごり歌

2009-12-29 10:34:33 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・万葉集耕読
 感動のなごり歌       (40)

  山部宿禰赤人が作る歌 反歌二首
み吉野の 象山(きさやま)の際(ま)の
木末(こぬれ)には ここだも騒く 鳥の声かも              (巻六)
 吉野の象山山中の木々の梢では、あたり一面に鳴き騒ぐ鳥の声の何とにぎやかなことか。

ぬばたまの 夜の更けゆけば 久木生ふる 清き川原に 千鳥しば鳴く  (巻六)
 夜がしんしんと更けるにつれて、久木の生い茂る清らかな川原で千鳥がしきりに鳴いている。

 柿本人麻呂より二十年ほど後、聖武朝に仕えた山部赤人の吉野従駕長歌に続く反歌の二首である。長歌は、持統朝の人麻呂吉野讃歌の伝統を踏襲したもので、この二つの反歌も山と川の景を朝・夜に対比して詠っているが「(前の歌は)一首の意至簡にして、澄み入る所が自ら天地の寂寥相に合している。(後の歌は)第一句より三句まで押して行く勢が既に異常であって、一種澄み入った世界へ誘い入れられる心地がする。」(島木赤彦)
 長く松江北高の国語科のエースとして、島根国文学会をリードされ、退職後には、二十三年に亘る研究成果として『訓注明月記』を上梓された稲村榮一氏は、お若い頃、「(この反歌には)他の赤人作品とは異質の叙情性があり、それは純粋に自然そのものを求めて自己の寂寥を満たそうとして成ったというよりも、従駕の歌であるということの精神の緊張を裏付けとして始めて得られたものである。」と論じて注目された。確かにこの反歌は、吉野の自然をありのまま写実的に捉えているのではなく、天皇の御幸に供奉しているという持続的な緊張感の中で自然の生気を甦らせている。
 
 私も、普段はことさら歌を詠んだり句を吟じたりすることもないが、何か日常と違った特別な体験をした時には周囲の景観まで色合いが変わって見え、そぞろ句や歌が口を衝いて出ることがある。生まれたばかりの初孫の顔を見ての帰路、眼下の渓流に溢れる若葉を目にした時(渓谷に溢るる若葉や吾孫生まる)、また高校卒業五十周年同窓会で、旧友たちと出雲路神紀行に出向く朝、簸川野の遙かに、「宇迦の山なみ」を眺めた時(けさよりはよろづの神のつどふなる宇迦の山なみ襟を正せり)等々。げに、「詩歌は、静かなる所にて思い起こしたる感動なりとかや。」(藤村詩集序)である。
           

孤独な旅人の不安

2009-12-23 09:00:01 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・万葉集耕読
 孤独な旅人の不安      (39)

いづくにか 舟泊(ふなは)てすらむ 
安礼(あれ)の崎 漕ぎ廻(た)み行きし
棚なし小舟    高市連黒人(巻一)
 
どこに舟泊まりするのであろうか。さっき安礼の崎を漕ぎめぐって行ったあの棚なし小舟は。

旅にして もの恋しきに 山下の 
赤(あけ)のそほ船 沖に漕ぐみゆ
          前の歌と同じ(巻三)
 旅先にあってなんとなく家郷が恋しく思われる時、ふと見ると、さきほどまで山の下に碇泊していた朱塗りの船が沖の方を漕ぎ進んでいる。

 高市黒人は、持統・文武両朝に仕えた、身分の低い官人らしいが、詳細な経歴は不明。万葉集所収の十八首は、ほとんどが旅に関する歌である。
『古典集成』は、ともに昼の歌として解釈しているが、「同じく黒人の作でも、単純に昼間の景として描き出された(後の)歌と違って、(前の)歌は、夜の闇黒に縁取られた中に、あたかもそれと対照をなすかのように、明るい昼間の光景が描き出されている。単純な平面的な叙景歌でなく、甦らせたイメージのなかに浮かび上がった、想の厚い叙景歌である。」(山本健吉)

 山本健吉は、日本文学大賞を受賞した大著『詩の自覚の歴史』の序章において、万葉集の中には「群の場での楽しみのうた」と「群を離れての詩」とが、共存しており、「混沌未分の中に生まれた日本人の詩の声が、次第に自覚を持ち始め、ひとりごころのかなしみの声を胎んでゆくさまをとくと眺めてみたい。」と述べている。
 この高市黒人の旅の叙景歌も、従駕中の宴席で披露する「楽しみのうた」として作られたものであろうが、作者個人が感じている「孤独な旅人の不安」を自覚的に表出しており、それは彼自身の魂を鎮める抒情詩になっている。ただ、後世の旅の詩人・芭蕉のように、「漂白の思い」に取り憑かれて、「(人生は)日々旅にして、旅を住みかとす」と言い切るほど開き直っているわけではない。
          

鮮明な残像

2009-12-16 08:14:57 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・万葉集耕読
 鮮明な残像          (38)

明日香の宮より藤原の宮に遷りし後に、
志貴皇子の作らす歌
采女の 袖吹きかへす 明日香風 
都を遠み いたづらに吹く   (巻一)
采女の袖をあでやかに吹きかえす明日香風も、都が遠のき、采女もいなくなって、今はむなしく吹いているばかりだ。

難波の宮に幸(いでま)す時 
志貴皇子の作らす歌
葦辺行く 鴨の羽がひに 霜降りて 
寒き夕(ゆふべ)は 大和し思ほゆ(巻一)
枯葦のそばの水面を行く鴨の羽がいに霜が置いて、寒さが身にしみる夕暮れは、とりわけ大和の都に残して来た妻のことが思われる。

天智天皇の子である志貴皇子は、皇統が天武天皇系に移って、持統・文武朝では政治的には存在感が薄かった。万葉集には六首の歌が残されているが、さわらびの歌をはじめすべて秀歌のほまれが高い。前の歌の成立事情は、題詞のとおりである。遷都とは言え「ここには悲傷はなく、かわって甘美な回想の世界がある。采女の袖から上品な色気は発するが、もともと幻影からのものゆえ、決してなまなましい色気ではない。」(田邊幸雄)
後の歌は、文武天皇の難波行幸供奉の歌である。(鴨の羽がひに置く霜など)「夜目に見えるはずもないが、昼間の景色を思い浮かべながら、かくもあろうかと想像しているのであって、そのイメージの鮮明さが、この歌の強く張ったリズム感と、相伴って生かされている。」(山本健吉)

私には、それぞれの歌から喚起される鮮明な残像がある。一つは、まだ教師駆け出しの頃。転任の挨拶のため、出雲高校の正門に通じる坂道を、自転車を押しながら登っていると、後ろから来た数人の女子生徒が一斉に嬌声をあげた。坂下から吹き上げた春風にスカートがあおられたのだ。傍目を気にせず無邪気に大騒ぎする彼女らの姿に、さっきまでの緊張感が緩んで、颯々たる風が吹き抜けた後の爽快感が残った。いま一つは、教師稼業の折り返し点を過ぎた頃。私は県の教育行政に係わり、例年、節分過ぎから一週間ほど、気の重い業務を抱えて大阪に出張していた。夜ごとに、宿のベッド脇のガラス窓に、赤いネオンサインの光が点滅していた。いずれも歌には昇華できない、忘れ得ぬ光景である
         

淡々とした辞世の歌

2009-12-09 09:01:06 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・万葉集耕読
 淡々とした辞世の歌      (37)

有間皇子、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首岩代の 浜松が枝を 引き結び
ま幸(さき)くあらば また帰り見む  
ああ、私は今、岩代の浜松の枝を結んで行く、もし万一願いがかなって無事でいられたなら、またここに立ち帰ってこの松を見ることがあろう。

家なれば 笥(け)に盛る飯を 草枕   旅にしあれば 椎の葉に盛る  (巻二)
 家にいたなら立派な器物に盛ってお供えする飯なのに、いま旅の身である私は椎の葉に盛る

 有間皇子は、孝徳天皇(元号を大化と改め難波宮で即位したものの、中大兄皇子らの冷酷な待遇を受け、悶死した)の唯一の子。十九歳の時、策略と知らず蘇我赤兄に誘われ謀反の謀議に加わり捕らえられて、斉明女帝に供奉していた中大兄の訊問を受けるため、白浜温泉に護送された。この二首の歌は、その途上で詠んだものである。
 訊問の庭で、有間皇子は、「天と赤兄と知らむ。吾もはら知らず。」と答えるだけで黙したという。その帰路、再び岩代を通って藤白坂まで来たところで、皇子は絞殺された。「従容と死につこうとする潔さが十九歳のプリンスの体にあふれている。だから松を結んで無事を祈ることにわざとらしさもない。一首に流れている淡々とした調べは、意志の透明さによるものである。この若者の心をよぎるたった一つの翳りがあった。妻への愛である。(後の歌は)家で妻が食器に盛ってくれることを回想したものである。」(中西進)

 さきに「士の本懐」で記述したように、人は、臨死という極限の状況に身を置いた時、何を考え、何を言い遺すか。太宰治の未完の小説「グッドバイ」やゲーテがいまわの際に発したという「もっと光を」などという言葉を仰々しく取り上げるのは、後人の下世話な関心からである。
有間皇子の歌には、無念さが少しも滲んでいない、淡々として天命に従おうという潔さがある。それがかえって後生の人に、古代政治の非情と暗闇を感性的に認識させる。岩代の結び松を通して、有間皇子を哀悼する歌は、万葉集に多数収められている。

鹿の味寐(うまい)

2009-12-02 09:11:39 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・万葉集耕読
 鹿の味寐(うまい)       (36)

岡本天皇の御製歌一首
夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜(こよひ)は鳴かず 寐(い)ねにけらしも
                (巻八)
夕方になるといつも小倉の山で鳴くあの鹿は、どうしてか、今夜は鳴かない。妻にめぐり逢えて共寝をしているのであろう。

岡本天皇とは舒明天皇のこと。実質的にはこの天朝から万葉時代がスタートしたとされている。大化の改新より以前の帝であるから、宮室の規模は極めて小さかった。秋の静かな夜などは、冷たい空気を震わして鹿の声が聞こえてくる。それが今夜は聞こえて来ない。
「どうしたのかな、求める妻にめぐり逢えて、安らかな眠りに入ったのかな、とあたたかく思い遣られたのが、この歌である。鹿という好もしい動物に寄せる天皇のやさしい御心が、一首に満ちあふれている。」(高木市之助)
『釈注』の伊藤博は、この名歌の境地に参入するために、京都の奥、高雄の山小屋に一夜の宿りを取り、鳴く鹿の声に耳を澄まされたという。「『カーヒョー』。長く尾を引き、澄んで高いその声は、哀調を帯び余韻を残しつつ、一声だけで終わる。そして、四分ばかりの間を置いて鹿はまた『カーヒョー』の高鳴りをしみ入るように響かせた。」
私は寡聞にして、鹿の鳴き声は聞き知らないが、この克明なルポルタージュによると、その「響(とよ)もす」声は、夏のほととぎすに似ているのかもしれない。(両者の鳴き声については、すでに本欄の「ほととぎすの初音」と「筑紫やいづち」の稿で触れた)

来年の平城遷都千三百年紀のキャラクターとして、坊主頭に鹿の角を生やした「セント君」が発表され、その異様さが論議を呼んだが、古来、日本人は鹿の鳴き声に「妻恋の思い」を感情移入するほど、深い親密感を抱いていた。
因みに、伊藤博門下の女子学生が、卒業論文で「一人寝の熟睡」を「安寐(やすい)」と言い、「男女が二人で共寝をする熟睡」を「味寐(うまい)」と言うのではないかと指摘したという。成る程、お説ごもっとも。後生畏るべしである。
このところの私は、寄る年波で、「安寐だになせぬ」体たらくである。