日本人のこころの歌
―続「古今集」耕読・むかし、男の歌(1)
王朝文学のパイオニア
病して弱くなりにける時によめる 業平朝臣
つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど
昨日今日とは 思はざりしを (巻十六・哀傷歌)
最後には誰もがみな行かねばならない道だとは前々から聞いていたが、わが身自身がそうなるのは、昨日今日というほど差し迫ったことだとは、思ってみもしなかったのに。(伊勢物語 百二十五段参照)
紀貫之にノミネートされた六歌仙の第一人者・在原業平の辞世の歌である。業平は、「古今集」が成立する四半世紀前に、享年56歳で没したとされている。この歌のとおり、若い頃から情熱の赴くまま世俗的な秩序に超然として生きてきたが、晩年、病弱になるまで迂闊にも人生の哲理を失念していたというのである。この歌には、いたずらに生に執着しない、恬淡とした「軽み」の風体(ふうてい)がある。「三代実録」に「業平、体貌閑麗 放縦不拘 略(ほぼ)才学なきも、善く倭歌(わか)を作る」とあるように、王朝の「無頼派歌人」であった。
業平は、平安朝初期の平城天皇の皇子・阿保親王の五男で、在原姓を賜り臣籍に降下して、近衛中将になった。祖父、父と相次ぐ政治的反逆によって、若い時から精神的に圧迫をうけながら成長した。このため彼はあえて政治的に対抗するより、文化的立場から精神的自由を謳歌する生き方に与したのであろう。
六歌仙の時代は、漢文学全盛期からようやく和歌が復興していく機運の中にあった。生来、情熱的で即興的な才能のある業平は、思いに任せて奔放に和歌を詠んだ。禁断の恋情、漂泊の旅情、不遇な親王に寄せる同情、等々。「浪漫的な反逆の魂」に裏打ちされた「こころの歌」が、唐風の律令制官僚政治に倦んだ貴族社会の人々の胸に響いた。
「古今集」には、「よみ人しらず」と四人の撰者との歌が圧倒的に多いが、その中で業平の歌は30首も採られている。その歌は、後に成立した現存の「伊勢物語」では、大抵「むかし、男」が詠んだ歌とされている。「古今集」の業平の歌と「伊勢物語」とは、おそらく今は散逸した「私家版・業平歌集?」に依拠したものであろう。
そして、「伊勢物語ないし業平の文学精神が真に受けつがれたものは、『源氏物語』であった。『源氏物語』の精神的母胎は、他の何よりもここにあった」(青木生子)のである。
―続「古今集」耕読・むかし、男の歌(1)
王朝文学のパイオニア
病して弱くなりにける時によめる 業平朝臣
つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど
昨日今日とは 思はざりしを (巻十六・哀傷歌)
最後には誰もがみな行かねばならない道だとは前々から聞いていたが、わが身自身がそうなるのは、昨日今日というほど差し迫ったことだとは、思ってみもしなかったのに。(伊勢物語 百二十五段参照)
紀貫之にノミネートされた六歌仙の第一人者・在原業平の辞世の歌である。業平は、「古今集」が成立する四半世紀前に、享年56歳で没したとされている。この歌のとおり、若い頃から情熱の赴くまま世俗的な秩序に超然として生きてきたが、晩年、病弱になるまで迂闊にも人生の哲理を失念していたというのである。この歌には、いたずらに生に執着しない、恬淡とした「軽み」の風体(ふうてい)がある。「三代実録」に「業平、体貌閑麗 放縦不拘 略(ほぼ)才学なきも、善く倭歌(わか)を作る」とあるように、王朝の「無頼派歌人」であった。
業平は、平安朝初期の平城天皇の皇子・阿保親王の五男で、在原姓を賜り臣籍に降下して、近衛中将になった。祖父、父と相次ぐ政治的反逆によって、若い時から精神的に圧迫をうけながら成長した。このため彼はあえて政治的に対抗するより、文化的立場から精神的自由を謳歌する生き方に与したのであろう。
六歌仙の時代は、漢文学全盛期からようやく和歌が復興していく機運の中にあった。生来、情熱的で即興的な才能のある業平は、思いに任せて奔放に和歌を詠んだ。禁断の恋情、漂泊の旅情、不遇な親王に寄せる同情、等々。「浪漫的な反逆の魂」に裏打ちされた「こころの歌」が、唐風の律令制官僚政治に倦んだ貴族社会の人々の胸に響いた。
「古今集」には、「よみ人しらず」と四人の撰者との歌が圧倒的に多いが、その中で業平の歌は30首も採られている。その歌は、後に成立した現存の「伊勢物語」では、大抵「むかし、男」が詠んだ歌とされている。「古今集」の業平の歌と「伊勢物語」とは、おそらく今は散逸した「私家版・業平歌集?」に依拠したものであろう。
そして、「伊勢物語ないし業平の文学精神が真に受けつがれたものは、『源氏物語』であった。『源氏物語』の精神的母胎は、他の何よりもここにあった」(青木生子)のである。