竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

 『ひとりごつ』(55) 哲学者が捉えた「古代日本人のこころ」⑤

2016-06-30 11:07:15 | 日記

  浄土思想の形成ー仏を念じて極楽に往生する 

 日本の仏教において、あの世に地獄と正反対の極楽があり、仏に導かれて人は死後にそこに赴き住みことができる、と一般に信じられるようになるのは、平安時代中ごろからのことであるとされている。その思いに、明快な方向性を与えようとしたのが、天台宗の僧侶・源信の著『往生要集』である。

 この書は、平安朝前期の空海や最澄とは、立場を異にするものである。人間が生まれてから死ぬまでの現実の世界よりも、死後に生きるあの世に目を据えて、ものことを考えていこうとする仏法書である。

 その第一章は、「厭離穢土」として、地獄その他の穢土の惨状を克明に記述しているが、第二章の「欣求浄土」では、一転して浄土の安楽が讃えられている。

 「往生要集」の本旨は、第四章「正修念仏」にある。源信の「念仏」とは、漢字の原義どおりに「仏を念じる」こと、名号を唱えることでなく、仏の姿をありありと思い浮かべることである。観相こそが最大の宗教行為だという。いわば、「イメージの宗教思想」である。美との親和性の強さは、日本仏教の大きな特質である。仏教伝来から奈良時代中期まで、仏教は人々の美意識と深くかかわり、新しい美を作りだしていった。その後に来る天台宗と真言宗は、求道心と思考力に秀でた開祖ー最澄と空海ーのもと、倫理と思想の領域へと深く入り込み、美とのかかわりは希薄になったが、平安当初には、仏を念じて極楽に往生するという浄土思想によって、かっての美と宗教の結びつきが、イメージの宗教として再現されたのである。

 比叡山を離れ、京を中心に布教して歩き、「市聖」と呼ばれた空也上人も、その臨終のさまは美しく記されている。死の苦しみや死の穢れとは無縁の、安らかな死のイメージがここにある。

 浄土思想にとっては、この世とあの世の境い目にあたる死も美と深くかかわるものでなければならまかったに違いない。

 今回をもって、このシリーズは終了とします。


『ひとりごつ』(54)  哲学者が捉えた「古代日本人のこころ」④

2016-06-28 09:25:35 | 日記

  仏教の受容(2) 霊(たま)信仰と仏像崇拝 

 日本古来の「霊信仰」に生きる人々は、6世紀半ばに伝来した仏教の「仏像信仰」のスタイルに驚かされた。人間の姿をした金銅の仏像を拝むことなど、古来の宗教では無縁のことであった。古代の日本には、人間の姿をした等身大の像が作られ、それが崇拝されるという儀礼はまずなかった。

 古代人に比べて、神仏に対する信仰心が希薄になった現代の日本人の多くは、観光のついでに古刹を訪ねて、仏像を拝する機会は多いが、例えば、法隆寺の百済観音像、中宮寺、広隆寺の半跏思惟像、薬師寺金堂の薬師三尊像などの仏像を拝観すると、その像には事前の予備知識を凌駕する「何事にも動じない強い精神」と「崇高な美しさ」が感じられ、それらの仏像は「人間を超えた存在」のように思われてくる。宗教に縁遠い私たちは、手をあわせながら、思わず知らず、自分や身内の者、そしてせいぜい日本社会の将来の幸福や安泰などについて、祈りを捧げている。

 6世紀後半に、最終的に崇仏派が廃仏派に勝利し、以後、仏像の崇高な美しさは、まわりの荘厳な造作や建物の造形の美しさにまで及んだ。しかし、仏教を信じることは、単に仏像や周囲の荘厳な雰囲気に浸ることではない。

 仏教を信仰することは、物見遊山ではない。その本筋は、仏典を丁寧にたどり、説くところを的確に理解し、その教えに従うことこそ肝要である。しかし、6,7世紀にかけての日本仏教史にあっては、仏典の理解、宗教的思索、仏道修行といった方面では、注目すべき活動はほとんど見当たらない。(そういう方面は、9世紀初頭の最澄、空海の登場を俟って、初めて本格化するのである。)

 日本においては、古来の「霊信仰」に底流している、禍を追い払い、福を招き寄せたいと思う「現世主義的志向」が、仏像と向き合うという新しい宗教形態においても、根強く生き続けているのである。


『ひとりごつ』(53)哲学者が捉えた「古代日本人のこころ」③

2016-06-25 09:56:44 | 日記

  仏教の受容(1) 霊(たま)信仰と仏像崇拝 

『日本書紀』によると、552年が「仏教公伝」とされている。この年に百済の聖明王から日本の欽明天皇に、仏像と仏具と仏典を送り届けてきたという。これを受けて大和朝廷の豪族たちは、「崇仏派」(蘇我氏ら)「排仏派」(物部氏、中臣氏ら)が鋭く対立した。そこで天皇は、とりあえず頭目の蘇我氏に仏像を託し、これを礼拝させた。

 旧来の自然神や祖先神を祀る信仰に対して、外来の仏像を拝むというのは、全く質の違う信仰の形である。それまでにすでにあった宮廷内の氏族の政治的対立が、仏教公伝を機に、宗教的な対立として露出したのであろう。両派は兵を興し、最終的には、蘇我馬子が聖徳太子などの助けを得て、崇仏派の勝利で終結した。こうして公認となった仏教の受容は、日本の精神史にとって重大な意味を持つことになった。 

 それまで古代日本人の信仰の対象となっていたのは、広く「神」の名で呼ばれていた。並外れた特別の威力を持ち、畏怖せざるをえないもののすべてを指していた。種々雑多な神が天地のあらゆる所に存在するという多神教が日本の古代人の信仰世界だった。その神の威力を引き出したり鎮めたりするのが、「神を祀る」という信仰の形であった。いわゆる「魂振り(たまふり)」、あるいは「魂鎮め」である。

 「たま」は、自然界に存在し、人間の心身に感じ取られる存在だった。気息を整えてその霊威を感じ取ることができれば、たがいの共同意識として霊との交流がなりたつ。それが古代人の「精霊(たま)信仰」の土台をなす情感だった。亡くなった先祖の魂は「先祖霊」という一つの霊体に融けこんで、子々孫々の生きる郷土の近くにとどまっていること、それこそが日本古来の先祖崇拝の土台をなすものであったと柳田国男は、指摘している。現代の宗教学者・山折哲雄は、このような古代人の信仰における神と霊との関係認識は、現代人にも近しいものと考えている。


『ひとりごつ』(52)哲学者が捉えた「古代日本人のこころ」②「古事記」(2)

2016-06-20 10:08:40 | 日記

   「古事記」(2)その文学性と思想性 「悪と暴力の物語」 

 前回とりあげた「男女の宿命的な恋愛物語」と並んで「悪と暴力の物語」も、国の支配秩序や社会倫理と深くからみあう形で展開させている。

 神代のスサノオノミコトは、秩序破壊の権化として登場するが、彼は道徳的な悪人ではない。持ちあわせているのは特異な気性の激しさとエネルギーのすさまじさである。父・イザナギの命令に背いて追放されたスサノオは、姉・アマテラスの支配する高天原へ昇っていく。姉の執りなしも意に介せず、そこでも粗暴さは収まらない。ところが、天上界から追放されて、地上の出雲国に下ってからは「堂々たる善の英雄」に変身するのである。

 スサノオは、「荒ぶる迷惑な存在」であると同時に、恐るべき威力を持った「ありがたい存在」でもあった。地上の人びとは、ただ、その力が自分たちに有利に働くことをひすら願うだけである。その祈りの儀式が「神祭り」であった。その際、一同が声をそろえて高らかに笑うことによって、共同の気分が昂揚し、人びとの絆は一層強くなる。「笑い」は、現実を肯定する精神の発現である。「古事記」は、本質的に「現実肯定的な性向」をもった歴史書なのである。

 外国の神話のように、「神は超越性を持って絶対的な規範力を示すもの」として形象化されていない。「日本の神々の住む天上界は、人間の住む地上界に対して超越した絶対的なものでなく、むしろ地上の世界を支えるものとして生き続けているのである。」

 「神々が人間に近づき、神の世と人の世はなだらかにつながるものとなる。すると、神の世界に対する肯定観が人間の世界にも及び、神・人の連なる世界が、ともども肯定される。そこに「古事記」の現世肯定的な性格の根本がある。神々の世界の超越性の不十分さが、空間的にも時間的にも神々の世界と人間の世界をなだらかにつなぎ、物語の全体を善悪、正邪、真偽を合わせふくんだ現世肯定の物語へと向かわせるのである。」


『ひとりごつ』(51)哲学者が捉えた「古代日本人の魂」①「古事記」(1)

2016-06-15 08:53:18 | 日記

  「古事記」(1) その文学性と思想性 

 まことに僭越ながら、このところは暫く、哲学者・長谷川宏氏の大著『日本精神史・上』について、「王朝文学」に関する部分に限定して、その見解の一部を要約する形で紹介してきた。もとより私の心覚えにしたいという、身勝手な思いつきからであった。「古今」「伊勢」「枕」「源氏」と書いて来て、ますます興が乗ってきた。そこでこの際、もう少し続けて「古代日本人のこころ」について、氏の指摘することをまとめておきたくなった。私のわがままをご容赦願いたい。 

 所謂「大化の改新」以後、「壬申の乱」に勝利した天武天皇は、家々に伝わる帝紀と旧辞の真偽を明らかにして、天皇支配の正統性を根拠づけようとして、日本最初の歴史書「古事記」の編纂を思い立った。それは、上・中・下の三巻に分けられ、天上・地上の世界のなりたちとそこでのさまざまな出来事を天皇支配と強く結びつけて記述したものである。この日本最古の史書から、わたしたちはどのような文学性と思想性を読みとることができるか。長谷川しは、史書としての本題よりも、むしろ「(撰録を主導した国家の専制的支配者の)意志に包摂されつつ、意志に逆らい、意志を逸脱する物語のありようにこそ、書物の思想性と文学性は宿る。」と指摘する。「支配者像の背後にうごめく、さまざまな男女の動きを好奇の目で眺め、生き生きと語る物語作者ないしは伝承集団の力が働き、その力によって、『古事記』の文学性と思想性が保証されたものと考えられる。」

 例えば、下巻「允恭天皇」の条にある物語。天皇の死後、継承者の軽皇子と同母妹の軽大郎女の密通が露見し、王位は、弟・穴穂皇子に移った。そのいきさつについて、『古事記』では、二人の兄妹の心情にまで立ち入って、生き生きと説き明かしている。道に外れたその行動を決して非道で忌わしいものと見ていない。ここには、「恋愛悲劇の、時代を超えた切実さがあり、むしろ、そういうところにこそ、わたしたちは政治の書『古事記』に、政治を超えた文学性と思想性(人の世を生きる切実さと喜びと悲しみ)を読みとることができるのである。