竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

筑紫やいづち

2009-09-30 10:38:02 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・万葉集耕読
 筑紫やいづち        (27)

大和へ 君が発つ日の 近づけば 野に立つ鹿も 響(とよ)めてぞ鳴く
         大典麻田連陽春(巻四)
 大和に向けて君が出発される日が近づいたので、心細いのか野に立つ鹿までがあたりを響かせるほどに鳴き叫んでいます。

ここにありて 筑紫やいづち 白雲のたなびく山の 方にしあるらし
         大納言大伴旅人(巻四)
 ここから見て筑紫はどの方向になるだろう。白雲のたなびくあの山の遙か彼方であるらしい。

 筑紫の太宰府は、律令制中央集権国家においては、地方にあっても特異な位置を占めていた。対外的には軍事と外交を管轄し、内政上では西海道の九国三島を総轄していた。六百人ちかい官人が勤務し、「遠の朝廷」にふさわしい規模と格を持っていた。
 大伴旅人が太宰府の長官としてこの地に赴任したのは、六十三歳の時である。現地で愛妻を喪った旅人は、いわゆる「筑紫歌壇」を形成し、「ワイワイ酒」と歌によって憂さを晴らしていた。
 三年後、旅人は、大納言に任ぜられ、平城京に帰還することになった。そこで、筑紫の歌仲間たちが餞別(はなむけ)の宴を張ってくれた。前の歌はその時に披露された歌の中の一首である。「みずからの気持ちをひそめて、鹿の声を表立てたところに、悲しみがいっそう哀切に響く。」(伊藤博)
 後の歌は、無事上京した旅人のもとに届いた筑紫の仲間からの便りに答えた返歌である。「ああ筑紫の方は、と西方を見やる時、目路を限って雲をまとう生駒山脈の山々がある。あの山のずっと向うなんだ、筑紫は。という感慨が割合に素直に表出されている。」(田邊幸雄)

 この九月の連休前、妻と太宰府を訪ねた。国立博物館で開催中の「阿修羅展」を覧るためであったが、この際「万葉集」や「出雲神話」と深い関わりのある筑紫の風土に身を置いてみたいという気持ちもあった。
「ういういしい、しかも切ないまなざし」(堀辰雄)を拝観するために、三時間待ちの人混みに揉まれる中で、まさに、「筑紫やいづち」の思いであった。

葛の葉のうらみ

2009-09-23 09:00:25 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・万葉集耕読
  葛の葉のうらみ      (26)

 真葛原(まくずはら) 靡く秋風 吹くごとに 阿太(あだ)の大野の 萩の花散る
            作者未詳(巻十)
 原一面の葛を押し靡かせて秋風が吹くたびに、阿太の大野の萩の花がはらはらと散ってゆく。

 「万葉集」には、萩の花を詠んだ歌が百数十首もあるが、この歌は、その中の代表的秀歌として、諸家の評が高い。
「葛の茂ったあたりを秋風が吹き渡ると、その白い大きい葉裏が著しく目立って、さながら野原に白波でも立ったやうである。と思ってその風の行方を眺めてゐると、それが野原一面に咲き満ちてゐる萩の花を掠め去って、可憐な花弁がほろほろとこぼれるといふ情景である。」(鴻巣盛広)
「(広漠な野原に)大波をうたせて秋風がざあっと通ると、萩の花が大野一面に散るという大自然の壮観を描き得たという意味において、それはいかにもスケールの大きい堂々とした歌ではないか。」(高木市之助)
 この歌の中心テーマは、「散る萩の花の美しさ」である。そして、その美しさを引き立てているのは、「葛の葉」と「野を吹き分ける秋風」である。この二つの素材は、爾来、日本の詩歌に好んで詠まれるようになった。
 紫紅色・総状の葛の花は、近代歌人・釈超空によって、「踏みしだかれて、色あたらし。」と捉えられ「この山道を行きし人」を慕わしく想起させた。葉柄が強く、裏面が白色化しているその葉は、恨み(裏身)の情感に結び付く枕詞になった。女人に化けて貴公子と結婚した信太の森の狐が、その正体が知られて、「恋しくば尋ね来て見よ」と恨めしく子別れする浄瑠璃・「葛の葉」の名場面は、少年の日の昔、今市のグランドに架かるサーカス小屋での人気演目であった。

 私が朝夕、犬連れで散策する新内藤川の河川敷は、このところ除草作業が行き届き、秋になると狐色に波打つ薄は姿を消したが、代わって葛の葉がひっそりと地に這っている。
 日常的に身近にある、ありふれたものを捉え、日本人固有の情感と結び付けた「最初の表現者・万葉人」に、そこはかとないゆかしさを感じる。
          

秋風の訪れ

2009-09-18 09:17:04 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・万葉集耕読
 秋風の訪れ          (25)

  額田王、近江天皇を思ひて作る歌
君待つと 我が恋ひ居れば 我がやどの
簾動かし 秋の風吹く     (巻四) 
 あの方のおいでを待って慕わしく思っていると、家の戸口のすだれをさやさやと動かして秋の風が吹く。

  鏡王女(かがみのおほきみ)が作る歌
風をだに 恋ふるは羨(とも)し 風をだ   に 来むとし待たば 何か嘆かむ(巻四)
 風の音にさえ恋心がゆさすぶられるとは羨ましいこと。風にさえ胸ときめかして、もしやおいでかと待つというのなら、何を嘆くことがありましょう。

 額田王は初め大海人皇子に愛され、十市皇女を生んだが、後に兄の天智天皇の後宮に身を置いた。額田王の姉・鏡王女は天智天皇の妻の一人であったが、後に藤原鎌足の妻となり、不比等を生んだ。
 前の歌は、近江に都を移したあと、病気がちで訪れも途絶えた天智天皇を偲んで作った歌である。「じっと秋風の音を聞いている。そのかすかなさびしい音を感にたえて聞いている。待つ身の悶えでなく、秋風に人待つ情趣である。」(田辺幸雄)
 後の歌は、前の歌に唱和して作ったものであろう。夫の鎌足が死んで間もなくのころの作と思われる。「(額田王に対して、自分は)もはや、夫が訪れてくる望みはまったくない。だから、待つという期待の中にあるあなたは、むしろ羨ましいと、妹の幸福を祈る心があるのかも知れない。」(山本健吉)

 さきに「灼熱の恋」で紹介したように、額田王は、本来、恋に身を焦がし、万座の中でかつての恋人をからかうような、情熱的で開放的な女性であった。かつての宮廷のスターもようやく人生の秋を迎えて、この歌は穏やかで情趣的になっている。「待つ恋」(片恋)というより、失われた過去の日々を「偲ぶ恋」というべきであろう。額田王関係の歌は、きまって巻一・巻二の古歌巻に採られているが、この二首だけが別の巻に収められていることから、二人の劇的な恋愛葛藤をもとに、後人が新たに作った「仮託の歌」とする説もある。

子供達の野外学習

2009-09-09 09:42:29 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・万葉集耕読
  子供達の野外学習     (24)

 山上臣憶良、秋の野の花を詠む歌二首
秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り
かき数ふれば 七種(くさ)の花 (その一)
 秋の野に咲いている花を、指折り数えてみると、七種の花がある。

萩の花 尾花葛(くず)花 なでしこの花           
をみなへし また藤袴 朝顔の花(その二)

 前の歌は短歌、後の歌は旋頭歌(五・七・七・五・七・七の六句体)。二首合わせて秋の七草の名を確認した歌。憶良が筑紫守であった時、配下の属郡を巡行中に子供達相手に行った野外学習のテキストであろう。「秋の光のさわやかに注ぐ野原で、大勢の子どもたちを前に、相好を崩しながら秋の七草を数え挙げる、好々爺山上憶良のほほえましい姿を思い浮かべることができよう。」(伊藤博)

 三十年もの昔、私が大田高校に勤務していた頃、英語屋のWさん、数学屋のAさん、国語屋の私の三人が車に相乗りして通勤していた。Aさんは、高校、大学の一年先輩で、無類の善人で、殊に博物学に関心が強かった。秋になると、頼みもしないのに決まってこの歌を吟誦し、花の特徴について逐一講釈してくれた。時には実物を確かめるために、三瓶の山道を迂回して帰宅することもあった。特に植物音痴の私は、七種すべてを暗(そらん)ずるのに難渋した。Aさんは、ハンドルから片手を離し、指折り数えながら繰り返し教えてくれる。「をみなえし」で、五本の指を折り曲げると、「また藤袴、朝顔の花」と小指、薬指を立てていく。「または余分」などとぼやきながら私も同じしぐさを繰り返したりしたものだった。
 このたび、この原稿を書くために『釈注』に目を通していて、驚いた。この歌は、れっきとした「万葉集」の片歌(だからこそ、音数上「また」の語が必要)で、Aさんの指導法は、どうやらそっくり憶良式のものであったのだ。まさに、「坊主の不信心」で、国語屋の私が何も勉強していないだけのことだった。

 秘かに「A大明神」と呼んで敬愛していた先輩も、はや他界してしまい、今となっては私の浅学を詫びる術もない。

栄光の時の再現

2009-09-02 10:26:41 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・万葉集耕読
 栄光の時の再現        (23)

東(ひむがし)の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ
         柿本朝臣人麻呂(巻一)
 東の原野にあけぼのの光がさしそめて振り返ってみると、月は西空に傾いている。

日並(ひなみし)の 皇子の命の 馬並(な)めて み狩立たしし 時は来向かふ
          前の歌と同じ(巻二)
 日並みの皇子の命が馬を並べて、かつて狩り場に踏み立たれた時刻はまさに到来した。

持統女帝の愛孫・軽皇子は、十歳の冬、大和の国、安騎野に遊猟した。父・日並(草壁)皇子も、夭逝する以前に、臣下を従えてこの地で遊興しており、その追懐として、おそらく女帝の発議によるものであろう。その冬猟に人麻呂は再び従駕して、皇子(女帝)に捧げた長歌に続く短歌中の二首である。
前の叙景歌は、「阿騎野に宿った翌朝、日の出前の東天に、既に暁の光がみなぎり、それが雪の降った阿騎野に映って見える。その時西の方をふりかへると、もう月が落ちかかっている、といふのである。」(斎藤茂吉)
後の歌は、「故皇子が馬を並べて御猟に出で立たれたその時が、今まさに軽皇子の上に来向かっている。さあ出発しようといった意味である。二皇子の馬上の英姿が二重映しになって、過ぎ去った栄光の時が、今まさに再現しようとしている」(山本健吉)
 
先日の総選挙は、「政権選択」を争点に、歴史的な決戦となったが、そもそも政権交代劇において、それぞれの陣営が旗印として掲げる「保守」「革新」の「本質的な」違いは、「これまでの政治的手法」を伝統として継承するか、因習として改変するかである。
持統女帝の宿願は、自分の血統を厳密に継続させることであり、亡き草壁のあとを継ぐものは、軽皇子にほかならず、その成長を熱望していた。儀礼歌のスペシャリスト・人麻呂は、女帝の意を体して、二人の皇子の像を見事にダブらせ、並み居る宮廷人の胸に、亡き草壁と後継者たる軽皇子を強く刻印する、完璧な讃歌を作った。
今日の日本の政治状況に照らしてこの歌を味わえば、全く違った景色が見えてくる。