竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

宮廷歌人・人麻呂

2011-12-30 07:10:01 | 日記
 日本人のこころの歌 (5)
  ―私家版・古代和歌文学史
          
  宮廷歌人・人麻呂(万葉集二)

 694年、持統天皇は藤原京を造営し、遷都された。この頃から天皇の御代や宮殿を褒め称える職業的な宮廷歌人が現れた。その代表は、柿本人麻呂であるが、歌以外の確かな履歴については、史料としては一切残されていない。
 万葉集中に収められている人麻呂の歌は、次の二系統に分けることができる。
 一つは、職業的宮廷歌人として、皇族の意向を体して詠んだ儀礼的な歌である。
○大君は 神にしませば 天雲の 雷(いかづち)の上に 廬(いほ)らせるかも
これは、巻三「雑歌」の巻頭の歌である。国見をするために、天皇が、雷の山に登り、仮宮に籠って、身を清めて立っておられるさまを詠ったもので、天皇を神として崇め、自然の神々も仕える尊厳な存在であるから、その国土も、いや栄に栄えると予祝したものである。

 いま一つは、職業的任務を離れて、個人的な感情を吐露した歌である。これには天才的抒情詩人としの本領を伺わせる歌が多い。殊に自分の妻妾の死を悼む歌や離別を悲しむ歌には、驚くほど、みずみずしい情感をたぎらせている。
 ある秋の日、人麻呂は、秘かに愛していた「隠し妻」を喪った。その折に詠んだ「泣血哀慟歌」と呼ばれる挽歌が二群ある。その第一の長歌の後半で、突然の訃報に接して、放心してしまった人麻呂が、かつて妻がよく出かけていた市場に独りで出向いて、抑えがたい心情を吐露している。
○吾妹子(わぎもこ)が やまず出で見し 軽の市に わが立ち聞けば 玉たすき 畝火の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず 玉ほこの 道行く人も ひとりだに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名喚びて 袖そ振りつる
 秋山の 黄葉(もみち)を茂み 惑ひぬる 妹を求めむ山道(やまぢ)知らずも
妻がいなくなった後でも日常は何ら変わらない状態であることに、呆然としているのである。雑踏の中に立ちながら孤愁の思いに耐えず、ただむなしく妻の名を呼んで袖を振っている人麻呂の、純真な人間性に溢れた美しくも悲しい挽歌である。

皇族の初期万葉歌

2011-12-23 10:37:32 | 日記
  日本人のこころの歌 (4)
   ―私家版・古代和歌文学史 
          
   皇族の初期万葉歌 (万葉集一)

 古来わが国で口承されてきた倭歌(やまと歌)は、漢字で記述できる外来の漢詩に圧倒されて、衰退の一途をたどっていった。
しかし、そこに新たな政治的需要が生まれた。中国の中央集権的国家体制を手本にして、日本で一気に律令政治(大和王権中心の官僚制度)を取り込むにあたり、先ずは政権の中枢たる天皇の権威を確立しなければならない。そのためには、消滅寸前の土着の和歌を再生させて、日本人としての誇りと一体感を待たせることが必要になった。我が国最古の歌集「万葉集」は、当初はそういう社会的要請を受けて編纂が企てられたものであろう。
 「万葉集」の編纂者は、複数の人が引き継いできたと考えられるが、二十巻全巻が最終的に完成したのは、おそらく八世紀後半である。そこに収められている約四千五百首の歌を時代順に配列してみると、五世紀後半から八世紀半ばに亘っており、その大部分は、七世紀後半と八世紀前半の百年間に集中している。
 「万葉集」の作者は、初期には天皇や皇族が多い。最も古くは仁徳天皇后磐姫、次に雄略天皇であるが、ともに伝説的な仮託の歌であろう。
○大和には 群山あれどとりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 煙立ち立つ 海原は 鷗立ち立つ うまし国ぞ あきづ島 大和の国は
 この歌は、万葉歌としては最古のものとされる舒明天皇の歌で、初春に香具山に上って国見をされた時の「祭式歌」である。単に目前の景を写したのではなく、言霊による呪的希求を表現したものである。「うまし国」と、あたかも甘美な食べ物をほめるような肉感的な言葉づかいが、いかにも王者らしい風格をうかがわせる。
 その一方で、同じ皇族の歌でも「壬申の乱」(六七二年)後の宮廷内の王権をめぐる相剋に関わる歌は、儀礼的、形式的なものでなく、むきだしの個人的な感情を表出したものになっている。例えば
○百伝(ももづた)ふ 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
 これは、天武天皇の死後、草壁皇子に対する謀反の罪で殺された大津皇子の辞世の歌である。自分の宿命に対して清澄で厳粛な気持ちを詠っている。

ヤクモタツ イヅモ

2011-12-16 08:26:25 | 日記
 日本人のこころの歌・こぼれ話
  ―古代和歌文学史ノート 3
          
  ヤクモタツ イヅモ
           (古事記二)
 天武天皇の命で巫女?の稗田阿礼が誦習していた帝紀(天皇の系譜)や旧辞(神話・伝承)を、元明天皇の勅により「古事記」として編録するために、官僚学者?の太安万侶は、中国から伝来した漢字を使って記述した。その序文は、純正の漢文体、本文の地の文章は音訓併用の変形漢文体、歌謡は漢字音を借りて一字一音式で書き分けている。
 中国では、漢字はすでに一般人でも自作の「漢詩」を記述できるほど使いこなされていた。わが国では、歌はまだ神々の創られたものとして音声伝承されている段階であった。その歌を伝来した漢字を使って、当時の音韻もそのままに記録するには、途方もない苦労があったに違いない。

 因みに、前回紹介した、「古事記」の「八雲たつ」の歌は、「日本書紀」にも収められているが、漢字の表記は大いに違っている。この歌は、わたしたちの郷土「出雲」の地名の起源を語る神話としても広く知られているが、「夜久毛多都 伊豆毛」(古事記)であれ、「夜句茂多菟 伊弩毛」(日本書紀)であれ、「ヤクモタツ イヅモ」という当時の日本語を似たような音を持つ漢字にあてはめて記述したものであろう。
 この歌は、「古事記」の物語のなかに組み込まれる時、五七五七七律の短歌形式にまとめられ、さらに「そこより雲立ち騰(のぼ)りき。しかして御歌よみたまひき。」という、詠歌の動機づけとなる情景描写までも書き加えられたものであろう。その後、農業治水の神・スサノオノミコトに関係の深い瑞祥として「雲」の漢字に替えて、「出雲」の地名の起源としたのに違いない。
 しかしながら、「出ヅ雲」が、「イヅモ」という短縮語に変化するのは、日本語の音韻上からも無理があると言われている。同じ「古事記」の景行天皇のイヅモタケルのくだりでは、「やつめさすいづも(八つ芽刺す出づ藻)」となっており、「イヅモ」は、もともとは「厳しき(いつくしき)藻」あるいは「生い茂る藻」ではないかとする説がある。出雲の海岸では、古来、海松(みる)あるいは黒珊瑚と言われる海藻を産出している。太古の昔の地名としては、この方が蓋然性があるのではないか。「雲立ちのぼる」という表現はロマンチックで美しいが、現実的な生産活動と結び着かないだけに、不自然な気がしてならない。

日本最古の歌

2011-12-09 08:27:13 | 日記
 日本人のこころの歌・こぼれ話
   ―古代和歌文学史ノート 2
          
  日本最古の歌
        (古事記一)

太古の昔から、わたしたち日本人の先祖は、なんらかのスタイルで歌を吟誦していたに違いない。遺憾ながらそれらの歌を文字に記録して後世に伝える術がなく、ただ人の記憶によって口承するほかはなかった。
お隣の大陸から半島経由で仏典とともに漢字という文字が伝えられ、初めて日本人は自分の情報や情念を、時間・空間を隔てた他人に伝える術を知ったのである。
「日本」という国号と「天皇」という称号が成立したのは、7世紀後半の天武・持統朝であるが、日本最古の文献は、8世紀初頭に成立した「古事記」である。これは神話・伝説・歌謡などによって、わが国の成り立ちのありさまを伝えた書物であるが、視点を変えて読むと、変則的な詞華集でもある。我が国の皇祖皇宗と縁の深い太古の神々が唱えた神語歌(その多くは唱和歌)が数多く収められている。
スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治して、クシナダヒメと結婚するという出雲系神話は、もともとは出雲の首長の家に伝わる伝説の一節であったのであろう。ヤマタノオロチは、大地を棲みかとするデーモン(鬼神)である。クシナダヒメ(奇稲田姫)という名前からすると、稲作と深い関わりがあることは疑いない。

夜久毛多津 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曽能夜幣賀岐袁(八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を)と表記された歌は、ヤマタノオロチを退治したスサノオノミコトが妻のクシナダヒメとともにわが出雲の地に新宮を造った折に詠まれた、日本最古の和歌とされている。
日本最初の勅撰集「古今和歌集」の序文では、「人の世となりてスサノオノミコトよりぞ三十文字あまり一文字は詠みける」として、この歌を整った定型で詠まれた最初の歌と断定している。
紀貫之のお墨付きを得て、日本の先人たちは、これが和歌の起源であり、出雲がその発祥の地と信じて疑わないようになった。そして、その流れは1300年を経た現代も途絶えていない。加藤周一氏は、その著『日本文学史序説』で「日本文化の中で、ほとんど永遠なるものは、短歌の形式であると言わなければならない。」と述べている。

和歌と短歌

2011-12-02 08:08:40 | 日記
 日本人のこころの歌
  ―古代和歌文学史ノート 1
          
 和歌と短歌

齢(よわい)「古希」を過ぎると、家で過ごすことが多くなり、新聞や雑誌などの活字に親しむ機会が増えた。当方に関心が強いせいもあるが、近年は静かな短歌ブームだと思う。各紙にいわゆる「歌壇」があり、かなりの頻度で、その入選秀歌が掲載されている。また、このところは自費出版された個人の歌集や遺稿集を贈っていただくことも多い。それぞれの歌に作者の深い情感が表されており、時にはこちらの心が洗われるような歌に出会うこともある。
近年では、わたしたちは「短歌を作る」のであり、「和歌を詠む」とはあまり言わなくなった。短歌も和歌も、ともに五七五七七音の定型の短詩形文学である。両者はどう違うのであろうか
一般的には、古代から中世にかけての王朝文学は「和歌」、明治以降の近代文学は「短歌」と呼んているようである。古くは、中国の「漢詩(からうた)」に対比して、日本の歌は歌体を限定せず、すべて「和歌(倭歌―わか、やまとうた)」であった。明治維新後に西欧の舶来詩(翻訳詩、創作詩)が流入するや、歌体を俳句・川柳と区別して「短歌」と呼ばれるようになった。近年は口語体の短歌も多い。
いずれにせよ、ともに外国から新しい文化の波が押し寄せ、その圧倒的な勢いに呑み込まれそうな状況になった時、「日本古来の歌」の不滅性を主張するためのネーミングであった。
日本が大和朝廷を中心に、なんとか統一国家を創り上げた矢先に、文字(漢字)とともに先進国・中国の文明が流入してきた。わが国もそれに倣って急遽、律令政治体制を整え、男性の官僚たちは公式の文芸として、競って漢詩を吟じた。そんな時代にも、日本人は自然の四季や自分の心情を題材にして、折あるごとに和歌を詠んできた。そして、それは今日まで千三百年以上も続いている。和歌は、歴史の激動に耐える生命力を持っているのである。

前回までは、勅撰集や私家集の中から数多くの古典和歌を取り上げ「耕読」してきたが、今回からは、その総括として日本古代和歌文学史を今一度整理しながら、5・7・5・7・7の韻律を持つ歌こそが、よろこびやあこがれ、苦しみや悲しみなどの情念に根ざす「日本人のこころの文学」であることを確かめていきたい。