竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

「古典耕読」の道しるべの書 補遺(4) ハイブリット言語の万葉集

2014-09-26 09:28:30 | 日記
「古典耕読」の道しるべの書 補遺(4) ハイブリット言語の万葉集
   日・中・韓の混成語の歌(その1)

 日本語の文字表現に関しては、わたしは高島俊男「漢字と日本人」(文春新書)が屈指の名著だと思っているが、まず、この書からその要点をまとめて整理しておきたい。
○かつて、日本に固有の文字はなかった。千数百年前にお隣の中国から漢字が伝来し、それを借用する形で日本語を文字表現するようになった。西暦の3世紀ごろから6世紀ごろまで、中国は六朝時代で南京に都があった。日本人はまず、この地方の発音(呉音)で漢字を朝鮮経由で輸入した。その後、平安時代になって、多くの官費留学生が、西北の都・長安に派遣され、当地の発音(漢音)を正統として、日本国内に普及させた。
○日本語は、語の機能に従って形態的に類別すると、韓国語やモンゴル語と同じく付属語、活用語尾による「膠着語」であり、語順による「孤立語」の中国語とは、異質の言語である。
○漢字が日本に伝来してから数百年の間に、漢字は、日本語を書き表す文字として都合のいいように修正された。例えば(1)漢字の中国風の発音を日本人が言いやすいように(音読み)を手直しした。(2)漢字をその意味にあたる日本語(訓読み)でそのまま読んだ。(3)日本語の語幹になる漢字は訓読み、接尾語・活用語尾になる漢字は音読みの漢字を使うことが多かった。(4)平安時代になってから漢字をもとに、日本語の口語をそのまま表記できるように「仮名文字」を創りした。

 漢字だけで表記した日本の古代の和歌文学は、「古事記」「日本書紀」では、漢字一字一音で表記されているが、「万葉集」では、後世人を悩ませる厄介な表記をしている。文字遊びの要素を取り込んだ「戯書」と言われる表記までしている。このため、古来、幾多の日本人が解読に挑戦しながら、現在でもその歌のよみかたが確定しない「難訓歌」がかなり残っている始末である。
 その「万葉集」が、実は日本語と同じ膠着語・韓国語の「吏読(いど)」という「古代韓国人が漢字を借り、その音訓を活用して表記した借字文」でも書かれているという驚くべき新説を明らかにしたのが、李寧(イヨンヒ)「もう一つの万葉集」(文藝春秋社)である。その要点を紹介する。
○日本人の心のふるさとともいうべき万葉集に口出しするのはたいへん心苦しいのですが、あえて申し上げます。万葉集はそのほとんどが古代韓国語で詠まれております。
○日本式音と訓を混用し、韓国語と日本語をとりまぜて表記しているところに加えて、漢文体語句まで活用しているので、実に複雑多様な表現方法になっているのです。
○一部万葉人は韓国系渡来人だったのでしょうか。それとも韓国語で歌を詠む風潮が当時の流行として日本知識人社会を風靡していたのでしょうか。日本、韓国、中国、三つの国の語文を一つにまとめて自国語へと昇華させ、自由奔放に歌った詩歌は他のどの国のどの時代にもみられなかったことと思われます。 次回からその実例の和歌を紹介したい。

「古典耕読」の道しるべの書 補遺(3) 辺境人は日本語とともに

2014-09-20 09:32:02 | 日記
「古典耕読」の道しるべの書 補遺(3) 辺境人は日本語とともに

 いまさら言うまでもなく、「万葉集」は、全文が漢字で書かれている。日本の古代の音声言語で詠まれた和歌を中国伝来の漢字を自在に使って独特に表記したものである。一様に「万葉仮名」と呼ばれているが、漢字の意味に則してオーソドックスに用いたものと、その音訓だけを借りて表記したものとがある。その文字の使い分けによって、古代の日本語には、母音が8つ(イ音、エ音、オ音が2種類)あったことも明らかにされている。平安時代には、漢字を変形して日本語の音声を簡単に表記できる「かな文字」を創り出して、女性は専らこれを使った。しかし、所詮は借り物の漢字表記のアレンジであった。そこに日本文化の根源的な辺境性があると指摘したのが、次の書である。

内田 樹「日本辺境論」―新潮新書 から

○日本列島はもともと無文字社会です。原日本語は音声でしか存在しなかった。そこに漢字(真名)が入ってきて、漢字から二種類のかな(仮名)が発明された。でも、「真名」と「仮名」という言い方自体ががおかしいとは思いませんでしたか?原日本語は、「音声」でしか存在しなかった。そこに外来の文字が入って来たとき、それが「真」の、すなわち「正統」の座を領したのです。そして、もともとあった音声言語は「仮」の、すなわち「暫定」の座に置かれた。外来のものが正統の座を占め、土着のものが隷属的な地位に退く。それは同時に男性語と女性語というしかたでジェンダー化されている。これが日本語の辺境的構造です。
○土着の言語=仮名=女性語は当然「本音」を表現します。生な感情や、剥き出しの生活実感はコロキアルな土着語でしか言い表すことができません。確かに漢文で記された外来語=真名=男性語は存在します。けれども、それは生活語ではない。それを以てしては身体実感や情動や官能や喜怒哀楽を適切には表すことができない。
 漢詩という文学形式がありますけれど、残念ながら、漢詩では限定的な素材しか扱うことができません。庶人の生活実感や官能は漢詩の管轄外です。ですから、列島住民が字を持つようになってから千五百年以上が経ちますけれど、私たちがいまだに読み継いでいるのは実は「仮名で書かれた文学作品」が中心なのです。
○私たちの言語を厚みのある、肌理の細かいものに仕上げてゆくことにはどなたも異論がないと思います。でも、そのためには、「真名」と「仮名」が絡み合い、渾然一体となったハイブリット言語という、もうそこを歩むのは日本語だけしかない「進化の袋小路」をこのまま歩み続けるしかない。日本人はそれをおのれの召命として粛然と引き受けるべきではないかと私は思います。


「古典耕読」の道しるべの書 補遺(2) 家持の「いぶせさ」

2014-09-13 09:46:48 | 日記
「古典耕読」の道しるべの書 補遺(2) 家持の「いぶせさ」

 大伴家持は、「万葉集」の最終編者とされており、その歌は、約4500首の万葉集歌のおよそ1割を超えている。青年時代に父・旅人の赴任地・太宰府で、叔母・義母の坂上郎女に歌詠みの手ほどきを受けた後、自らも越中守として赴任した。在任中の5年間は30歳前後の働き盛りであり、職務に恪勤し、精力的に和歌を詠んだ。任期の終盤には妻の坂上大嬢も都から下ってきて、日常の生活は暖かく、安定していた。聖武天皇の大仏鋳造のめどがつき、地方官吏の彼に義務づけられていた「出挙」の重荷から解放されて、心の自由を取り戻していた。
 ところが、任期を終えて上京し、大仏開眼の盛大な行事を迎えても、もはや彼にはなんの感動も味わえなかった。その間の心境の変容を克明に跡づけたのが次の書である。

 山本健吉「詩の自覚の歴史」―ちくま書房より

○家持が少納言となって(越中から)上京したのは、751年8月のことである。上京の途次、左大臣橘諸兄を寿ぐための歌をあらかじめ作ったりして、橘一家との親しい関係は前よりいっそう深まったが、2年前に藤原仲麻呂が新たに紫微中台の長官になっていて、すでに諸兄時代は仲麻呂時代に移行していた。
○757年橘奈良麻呂、大伴古麻呂、古慈悲などのクーデター計画が発覚して、一味は一網打尽に逮捕された。大伴氏はこの事変で決定的な打撃を受けた。家持は、あやうく身をかわしているが、彼らの暴発を防ぐことのできなかったおのれの無力をほぞをかむ思いで顧みている。
○「山柿の門」とは、家持から見れば、詩を寄せて親しむことの出来る、宮廷を中心とした嘉会の世界であった。だが、家持は、その世界に入ろうとして、門を閉ざされたという思いを禁じ得なかった。太宰府における父・旅人中心のサロン、佐保に叔母・坂上郎女らとともに作ったサロン、越中での池主らと楽しんだサロン、これら家々のサロンは、結局宮廷における正雅の嘉会に代わることはできなかった。
○家持は、宮廷の正雅にあこがれながら、結局孤りごころを哀傷する「怨者の流」に行き着かざるをえなかった。
 そしてそれが、万葉の世界が最後に行き着いた到着地点であった。群の世界、宴の世界の歌びとが、どのようにして群れを離れ、宴にそむいて、哀しみ凄み憤り恨む孤りのこころを奏でるようになったか、その推移を万葉集一巻の歌声の中に、聴き取ることができるのである。



「古典耕読」の道しるべの書 補遺(1) 憶良の「悲しみ」

2014-09-06 13:07:28 | 日記
「古典耕読」の道しるべの書 補遺(1) 憶良の「悲しみ」
 
 山上憶良の歌は、「万葉集」巻五の後半に、長歌、短歌、旋頭歌など合わせて75首が収録されている。彼は遣唐使としての経験もあり、殊に漢詩文への造詣も深く、帰化人であったのかもしれないと指摘する人も多い。下級官僚として懸命に職務を果たしながら「貧窮問答歌」のような社会派の作風の歌、妻子のことを思う歌、さらには上司の旅人に託した中央官僚への復帰を願う嘆願の歌など、現実主義者としての側面も残している。次の書は、憶良の本領に迫る好著である。

 中西進「悲しみは憶良に聞け」―― 光文社より

○ 憶良は「かなしみ」という特異なテーマを持つ歌人です。「かなしみ」とは何か。日本語の「かなし」という言葉は、漢字であらわせば「悲」のほかに「愛」という意味も含まれています。つまり、「悲哀」とはじつは「愛」の感情であるということです。愛していなければ悲哀など感じません。ですから、「どうしてわたしの人生は悲しいのだろう」と思っている人は、じつは深く人生を愛している人なのです。
○ このわが身への愛しみ―― 生命への愛は、じつははげしい自己の意識に裏付けられたもので、まさしく現代的なものです。
 現代作家といってもいい山上憶良は、みずからのいのちの尊さに目ざめ、それゆえにさまざまに苦しみを背負いこまざるをえなくなった現代人にとって、なくてなならない表現者でしょう。
○ 憶良の最後の歌とされているのが、「山上臣憶良のやまひに沈みし時の歌一首」です。「士(をのこ)やも空しくあるべき万代(よろづよ)に語り続くべき名は立てずして」最後の歌に「べし」ということばが二度も使われています。「かくあらねばならない」という思いがひじょうに強かったことは一目瞭然です。しかも、「士やも空しくあるべき」とうたいだしています。―― 「士」が空しくあっていいのか。いや、いけない。生涯の最後の結論が反語であるのも、いかにも「相克と迷妄」をくりかえした憶良にふさわしいように思えます。憶良がみずからの真実を尽くして生きてきたことはたしかです。70歳になっても、74歳になっても、努力して生きた。そうして生きる目標が名を立てることでしたが、ついに名を立てることはできなかったと感じていたようです。それが最後の絶望であり嘆きでした。
 しかし、かれの本領はあくなき生命力にあります。すでに見てきたように、かれほど生命への執着を示す万葉歌人はいません。しかもいま、衰えていくわが命を直視しながら、なおも「士やも空しくあるべき」とうたいつづけたのです。最後の最後まで大きな悲しみ、巨きな苦悩をかかえていたからこそ憶良は輝いているのです。またそこに、人間としての尊厳も光って見えます。