竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

勅撰集の時代

2012-01-27 06:40:30 | 日記
  日本人のこころの歌 (9)
  ―私家版・古代和歌文学史

  勅撰集の時代

 奈良時代の日本は、大陸文化に圧倒されていたが、それも仮名書きが一般化した9世紀には「日本化」されて、日本独自の王朝文化が生まれた。いわゆる「国風文化」は、摂関時代に全盛期を迎え、12世紀の院政期まで続いた。大陸との関係は、ほとんど途絶え、日本はアジアの東端で孤高を保っていた。「律令制」の行き詰まりが深まり、天皇は祭祀(大嘗祭・諸社御幸、節会などの行事)に特化してその権威を保持しながら、実質的な政治権力は外戚(母方の親族)の藤原氏(例外的に天皇を退位した上皇)が、独占的に行使していた。
そういう中で、10世紀以後の歴代の天皇たちは、しばしば勅撰集の編纂の勅命を下した。その宣旨は当代天皇の専権事項であり、いわば帝の徳政の証しであった。10世紀当初(905年)「古今和歌集」が成立し、続いて「後撰和歌集」(955年頃)、「拾遺和歌集」(1007年頃)、「後拾遺和歌集」(1086年)、「金葉和歌集」(1126年)、「詞華和歌集」(1151年)、「千載和歌集」(1188年)、「新古今和歌集」(1205)と、八度にわたって繰り返された。ここまでの勅撰集は八代集と呼ばれている。
 勅撰集の撰者には、三代集までは卑官の非藤原氏が多いが、第四「後拾遺集」以降は、「院政」に移行して政治的実権の薄れた藤原氏が中心になっている。実質的な政治勢力については、第五「金葉集」以降からは武士階級が台頭して、「詞華集」が成立するやほどなく、「保元・平治の乱」が勃発し、第七「千載集」が成立した時には、事実上、政治的権力は、源頼朝の鎌倉幕府に移っていた。そして、第八「新古今集」が成立した3年後には、源氏の第三代将軍実朝が暗殺されて執権北条氏が実権を握った。皇権の復活をめざして、後鳥羽上皇が北条氏追討の院宣を発しながら、あえなく敗退した「承久の乱」を境に上皇と藤原氏の権力は、ともに一挙に失墜した。
 第九勅撰集以降は、勅撰は名目だけになり、俊成、定家に始まる御子左家が撰集を統括することになった。それもやがて、二条家、京極家、冷泉家に分裂した。勅撰の沙汰は、約5世紀間、二十一代集に及んだが、「応仁の乱」以降は、もはや編纂されることもなかった。

カタカナとひらがな

2012-01-20 10:03:33 | 日記
 日本人のこころの歌 (8)
  ―私家版・古代和歌文学史
          
  カタカナとひらがな

前回取り上げた「万葉集」二十巻最後尾の家持の歌は、
○新年乃始乃波都波流能家布敷流由伎能伊夜之家余其騰
(新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事)と「万葉仮名」で表記されている。
 万葉仮名は、原則的には漢字の意味を無視して中国音(五・六世紀は呉音、七・八世紀は漢音)を借りる方法と意味に対応する日本語の訓をあてる方法とを併用して記述するものである。見かけ上は漢文そのものであるが、実はれっきとした和文である。
このように、外来の漢字を使って和歌を書き記す「万葉仮名」を、さらに略体化させて創りだしたのが、カタカナとひらがなである。この仮名文字の発明によって、ようやく日本人は漢字の桎梏を脱して自前の言葉と文字を使って、自在に読んだり書いたりできるようになった。
 周知のとおり、カタカナは、漢字を省略した文字、ひらがなは、漢字をくずした文字であり、どちらも漢字の変形である。
 カタカナは、あくまで漢文を訓読システムに従って日本語として読み下すための「プログラム言語(返り点と併用するヲコト点)」として生まれた「付属文字」である。それは、漢字を省略して作られた。例えば、「久」の初めの二画から「ク」、「須」の終わりの三画から「ス」、「乃」の初めの一画から「ノ」となった。
 ひらがなは、母国語の発音どおり記述する表音文字である。漢字の草書体をさらにくずして作られたものである。たとえば、「安」を「あ」に、「加」を「か」に、「左」を「さ」に変えた。このひらがなが、漢文体でない和文体の消息文や和歌の表記手段として、主に女性たちに用いられた。
 九世紀になってから、宮廷に仕える女房は和歌を巧みに詠んで、それを水茎もあざやかにひらがなで書き記すことが最も大切な教養になった。
 「古代の鹿鳴館時代」の男性貴族は、漢詩という異国の知的詩歌作りに励んでいたが、女性との消息文や和歌を詠むときにはひらがなを用いた。日常的な散文においても仮名文字表記は、日本人の生活実感や官能を自在に記述するのに都合がよかった。
 殊に、掛詞や縁語など、同音異義を活かした日本語独特の技法を用いて、伝統的で雅やかな世界を作り出す和歌では、ひらがなは恰好の表記法であった。

最終の歌人・家持

2012-01-13 09:41:33 | 日記
 日本人のこころの歌 (7)
 ―私家版・古代和歌文学史
          
 最終の歌人・家持(万葉集四) 

 「万葉集」の巻十七から巻二十までの末四巻は、雑歌・相聞・挽歌の部立を基本とするそれまでの巻と違って、最終編集者とされている大伴家持の「歌日記」であるという人もある。この四巻から、官人・家持の人生の軌跡をたどることもできる。
 730年、家持は、父旅人とともに大宰府から都に帰還した。しかし、その翌年には父が、さらにその後を追うようにして歌の師・山上憶良も他界した。
 746年、家持は橘諸兄のあと押しもあって、50歳の若さで越中守に任じられた。越中での5年間、国守としての任務に精勤しながら生涯の歌の三分の一を超える214首の歌を詠んだ。
 751年、家持は平城京に帰還した。だが、都では、聖武天皇も三年前に譲位されており、律令国家体制に翳りが見え始めていた。光明皇后の後宮を中心に藤原仲麻呂が独裁的な実権を握って、その一派の強引な政策によって、大伴氏などの保守皇親派は没落の危機に立たされていた。
○うらうらと照れる春日に雲雀あがり情悲しも独りし思へば
 753年春2月、家持37歳の詠である。この歌については作者自身で(悲愁の情は)「歌に非ずして撥ひ難きのみ」と、後に書き加えている。
 同じ年に、兵部省の次官として、難波(東国から九州への出港地)で、防人の交替事務にあたっていた家持は、「万葉集」巻二十に、84首の「防人の歌」を採録している。郷里への思慕を切なく率直に吐露した防人の心情は、術もなく廃れゆく自分の青春と大伴家の命運に思いを致す自分の心境と通じあうものがあったに違いない。
 759年、心ならずも因幡守として赴任した、雪に埋もれた国庁での年頭の寿歌
○新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事
には、もはや雪の瑞兆にすがるほかないという心の寂莫がこめられている。奇しくも、この歌が「万葉集」の最末尾の歌になった。
 785年、史実では、この年に家持は赴任先の多賀城で没したが、直後に藤原種継暗殺事件に加担したという嫌疑がかかり、遺骨を路上にさらされたとされている。
それまでの26年間の不遇な晩年には1首の歌も残されていない。

筑紫の老齢歌人・旅人と憶良

2012-01-06 09:54:53 | 日記
 日本人のこころの歌  (6)
  ―私家版・古代和歌文学史
          
  筑紫の老齢歌人・旅人と憶良(万葉集三)

 701年、大和朝廷は、「大宝律令」を制定し、「日本国天皇」という君主を戴く「東夷の小帝国」として、威儀を整えていった。統一国家成立の十分条件として、都城の建設と国史の編纂とが欠かせないものであった。710年、夭折された文武天皇の遺志を継いで、その生母元明天皇は、奈良遷都を断行し、712年には「古事記」を撰上された。     
 律令制を根幹とする中央集権国家が誕生するとともに、貴族たちは位階に応じて、都の中央官庁に属する京官や地方の国司・郡司などの外官に任命されたが、京都と地方の文化的レベルの違いは大きく、官人の待遇においても画然たる相違があった。ただ、同じ外官でも「大宰府」だけは、六百人近い官人が勤務しており、「遠の朝廷」(とおかどど)と言われるほどの規模と格とを具えていた。名門出身の大伴旅人は、727年、63歳で太宰帥として赴任した。都では藤原氏出身の光明子が聖武天皇の皇后となり、アンチ藤原派の旅人は「ワイワイ酒」で憂さを晴らす一方、武人らしいおおらかな人間性と気品の高い歌風によって、周囲の人々をひきつけ、いわゆる「筑紫歌壇」を形成した。旅人が在任中に催した歌会には、三十人を超える多くの歌人たちが集まったという。筑前守・山上憶良もその中心メンバーの一人であった。彼は、遣唐使について渡唐した経験もあることから漢文学への造詣も深く、「貧窮問答歌」のような下層社会の庶民や妻子のことを気づかうリアリストとしての側面も持っていた。
 旅人も憶良も老齢になって都に召還され、やっとの思いで帰京を果たしたが、ともに年月を措かず相次いで他界した。憶良の辞世の歌、
○士(おのこ)やも空しくあるべき万代(ゆろずよ)に語り継ぐべき名は立てずして
微官のままで終わった憶良はもとより高官の旅人にしても自分の歌が「万葉集」に載せられ、その名がはるか後世にまで語り継がれようとは、夢想もしなかったに違いない。
 父親とともに筑紫に下り10歳から14歳までの多感な少年期を過ごした大伴家持にしても、どのような将来が訪れるか、いまだ知るべくもなかった。