未完の結末 『明暗』③
『明暗』の登場人物は、主人公の津田、その妻・お延、その妹・お秀が主軸であるが、津田の学生時代の旧友・小林、結婚前の交際相手・清子などは、これまでの漱石の小説には登場しなかった異質の人間像である。漱石は、これらの人物を含め、この先どのようにこの小説のプロットを展開しようとしていたのか。すでに漱石は、人妻となった清子が、不運な流産のためにひとり温泉宿に逗留しており、それを承知の上で、津田が彼女と顔を合わせるシーンも描写しているのだから、その後の展開にはおのずから制約がある。
これまで、どんな場面になっても、「優悠」として決して取り乱さない清子と邂逅することによって、いつまでも未練がましく過去の情愛に惑わされている津田が、心機一転、自分の真実の生きかたに目覚めるところを、漱石は主題としたかったのであろうと、能天気に推察する向きも多い。例の「則天去私」という人生訓を、漱石が晩年に到達しえた悟達境として、そこにエゴイズムの救抜を見出したとしたいのであろう。 これに対して、江藤淳は、「津田は救済どころか、したたたかに攻撃され、宿痾を再発して死ぬ。彼の経験するのは、和解でなく闘争であり、勝利者は、清子―ある意味ではお延―である。」と結末を予測している。
これまでに多くの日本の作家や評論家たちが、未完の『明暗』の結末について、さまざまな角度から推理する文章を書いている。しかし、彼らは決して自らペンを執ってこの小説の結末自体を書き継ごうとはしなかった。 ところが、およそ四半世紀前に、長い間アメリカで生活し、英語による高等教育を受けた、一人の若い日本人の女性作家・水村美苗が、歴史的・社会的・文化的条件をまったく異にする先人作家の文体を模倣しながら、この小説の続編の執筆に挑戦し、見事に完結させたのである。性差、時差、そして何よりも高等な英語使用者でありながら、往時の日本語を自在に駆使して完成させた、小説『続明暗』には、ただただ脱帽するばかりである。
現代の漱石研究の第一人者である小森陽一は、『<ゆらぎ>の日本文学』の中で、「日本という国の内部においても、あらためて、「日本」―「日本人」-「日本語」-「日本文化」という<四位一体>の在り方へ、深い懐疑が投げかけられるような事態が発生したのである。」と驚嘆の声をあげている。まさに「後生畏る可し」である。私ごときの名もなき老兵は消え去るのみである。
今回で、この「漱石耕読」のシリーズも終了とします。次回からは、特にテーマを限定せずに、『ひとりごつ』のに面白いネタがあれば、随時、書き込むことにします。長い間のご愛読に心から感謝申し上げます。