日本のアンソロジストたち―大伴家持伝(15)
越中国守時代(六)「樹下美人」の歌
750年、京に留めていた家持の正妻・大伴大嬢が、越中に来て国守の館でともに暮らすことになった。「さ百合花 ゆりも逢うはむと 下延(したは)ふる 心しなくは 今日も経めやも」(花の名のように、いとしい妻に、「ゆり(あと)」にでも逢おうと頼む心がなかったら、今日一日さえも過ごせるものか」(巻十八)と思っていた家持にとっては、まさに大きな歓びであった。
同年7月、聖武天皇が譲位された。念願の大仏造立の見込みが立ち、光明皇后の勧めもあった。皇太子であった内親王が、孝謙天皇として即位された。8月には、これまでの皇后宮職が「紫微中台」と改められ、藤原仲麻呂がその長官を兼務した。その後、孝謙天皇の後見として、光明皇后と仲麻呂の権限が急激に拡大していった。
越中国守・家持は、今や大嬢が心の支えになっていた。そして、この頃から「歌日誌」は、生彩を放つ数多くの詠歌で充たされるようになった。750年3月以降の歌を集めた(巻十九)には、歌人・家持が本領を発揮した、例えば次のような歌がある。
○春の園 紅にほふ 桃の花
下照る道に 出で立つ娘子(をとめ)
(春の園が一面、紅色に照り映えている。その花の樹の下まで照り輝く道に、つと出で立つおとめよ。)
○もののふの 八十娘子(やそをとめ)らが
汲み乱(まが)ふ 寺井の上の 堅香子(かたかご)の花
(おとめたちが、さざめき入り乱れて水を汲む寺井のほとりに、ひっそりと群がり咲くかたかごの花(かたくり)よ。)
前の歌は、妻・大嬢のあでやかな都風の姿を核心として、春苑の美的構図を思い描いており、後の歌は、寺井の平凡な日常風景を優雅な詩境で作り上げている。いずれも、国府の国守館での独詠歌である。家持のさまざまな風物への観想を支えたのは、大嬢であった。家持はこのような詠歌によって、自分を励ましながら単調な国守の生活に耐えていたのであろう。
○朝床(あさとこ)に 聞けば遥けし 射水川
朝漕ぎしつつ 唄う舟人
(朝床の中でじっと耳を澄ますと、はるか彼方から聞こえてくる。射水川を朝漕ぎしながら謡っている舟人の声が。)
射水川は国府の東を流れている。朝床でうつらうつらしている家持の意識を、舟人の唄う歌声が快く揺さぶっているのである。
越中国守時代(六)「樹下美人」の歌
750年、京に留めていた家持の正妻・大伴大嬢が、越中に来て国守の館でともに暮らすことになった。「さ百合花 ゆりも逢うはむと 下延(したは)ふる 心しなくは 今日も経めやも」(花の名のように、いとしい妻に、「ゆり(あと)」にでも逢おうと頼む心がなかったら、今日一日さえも過ごせるものか」(巻十八)と思っていた家持にとっては、まさに大きな歓びであった。
同年7月、聖武天皇が譲位された。念願の大仏造立の見込みが立ち、光明皇后の勧めもあった。皇太子であった内親王が、孝謙天皇として即位された。8月には、これまでの皇后宮職が「紫微中台」と改められ、藤原仲麻呂がその長官を兼務した。その後、孝謙天皇の後見として、光明皇后と仲麻呂の権限が急激に拡大していった。
越中国守・家持は、今や大嬢が心の支えになっていた。そして、この頃から「歌日誌」は、生彩を放つ数多くの詠歌で充たされるようになった。750年3月以降の歌を集めた(巻十九)には、歌人・家持が本領を発揮した、例えば次のような歌がある。
○春の園 紅にほふ 桃の花
下照る道に 出で立つ娘子(をとめ)
(春の園が一面、紅色に照り映えている。その花の樹の下まで照り輝く道に、つと出で立つおとめよ。)
○もののふの 八十娘子(やそをとめ)らが
汲み乱(まが)ふ 寺井の上の 堅香子(かたかご)の花
(おとめたちが、さざめき入り乱れて水を汲む寺井のほとりに、ひっそりと群がり咲くかたかごの花(かたくり)よ。)
前の歌は、妻・大嬢のあでやかな都風の姿を核心として、春苑の美的構図を思い描いており、後の歌は、寺井の平凡な日常風景を優雅な詩境で作り上げている。いずれも、国府の国守館での独詠歌である。家持のさまざまな風物への観想を支えたのは、大嬢であった。家持はこのような詠歌によって、自分を励ましながら単調な国守の生活に耐えていたのであろう。
○朝床(あさとこ)に 聞けば遥けし 射水川
朝漕ぎしつつ 唄う舟人
(朝床の中でじっと耳を澄ますと、はるか彼方から聞こえてくる。射水川を朝漕ぎしながら謡っている舟人の声が。)
射水川は国府の東を流れている。朝床でうつらうつらしている家持の意識を、舟人の唄う歌声が快く揺さぶっているのである。