竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

日本のアンソロジストたちー大伴家持伝(16)「樹下美人」の歌

2015-04-29 09:03:24 | 日記
日本のアンソロジストたち―大伴家持伝(15) 
  越中国守時代(六)「樹下美人」の歌

 750年、京に留めていた家持の正妻・大伴大嬢が、越中に来て国守の館でともに暮らすことになった。「さ百合花 ゆりも逢うはむと 下延(したは)ふる 心しなくは 今日も経めやも」(花の名のように、いとしい妻に、「ゆり(あと)」にでも逢おうと頼む心がなかったら、今日一日さえも過ごせるものか」(巻十八)と思っていた家持にとっては、まさに大きな歓びであった。
 同年7月、聖武天皇が譲位された。念願の大仏造立の見込みが立ち、光明皇后の勧めもあった。皇太子であった内親王が、孝謙天皇として即位された。8月には、これまでの皇后宮職が「紫微中台」と改められ、藤原仲麻呂がその長官を兼務した。その後、孝謙天皇の後見として、光明皇后と仲麻呂の権限が急激に拡大していった。

 越中国守・家持は、今や大嬢が心の支えになっていた。そして、この頃から「歌日誌」は、生彩を放つ数多くの詠歌で充たされるようになった。750年3月以降の歌を集めた(巻十九)には、歌人・家持が本領を発揮した、例えば次のような歌がある。
○春の園  紅にほふ 桃の花 
      下照る道に 出で立つ娘子(をとめ)
(春の園が一面、紅色に照り映えている。その花の樹の下まで照り輝く道に、つと出で立つおとめよ。)
○もののふの 八十娘子(やそをとめ)らが 
    汲み乱(まが)ふ 寺井の上の 堅香子(かたかご)の花
(おとめたちが、さざめき入り乱れて水を汲む寺井のほとりに、ひっそりと群がり咲くかたかごの花(かたくり)よ。)
 前の歌は、妻・大嬢のあでやかな都風の姿を核心として、春苑の美的構図を思い描いており、後の歌は、寺井の平凡な日常風景を優雅な詩境で作り上げている。いずれも、国府の国守館での独詠歌である。家持のさまざまな風物への観想を支えたのは、大嬢であった。家持はこのような詠歌によって、自分を励ましながら単調な国守の生活に耐えていたのであろう。
○朝床(あさとこ)に 聞けば遥けし 射水川
           朝漕ぎしつつ 唄う舟人
(朝床の中でじっと耳を澄ますと、はるか彼方から聞こえてくる。射水川を朝漕ぎしながら謡っている舟人の声が。)
 射水川は国府の東を流れている。朝床でうつらうつらしている家持の意識を、舟人の唄う歌声が快く揺さぶっているのである。

日本のアンソロジストたちー大伴家持伝(14)

2015-04-24 09:15:56 | 日記
日本のアンソロジストたち―大伴家持伝(14) 
 越中国守時代(五) 「海行かば」

 749年、東大寺の廬舎那仏は、なんとか鋳鎔を終え、塗金の作業に入っていたが、肝心の黄金の欠乏はいかんともできなかった。そこへ陸奥国守・百済王敬福(きょうふく)が、管下から出土した多量の黄金を朝廷に献上した。聖武天皇は、この報に狂喜して直ちに東大寺に行幸された。大仏の前殿に座を占め、光明皇后、皇太子・阿倍内親王も近侍し、群臣、百僚、士庶はその後方に整列した。天皇は「貴き大き瑞」を得た歓喜を詔し、同時に慶びを臣民と分かちあおうと宣した。そして個別具体的に諸氏の功績述べた部分では、ことさら大伴、佐伯両氏の神祖が天皇に奉った古い言立(「海行かば 水浸く屍 ――」)にも言及し、両氏の子孫に忠孝求めるくだりも含まれていた。越中国守・大伴家持は、この詔勅を聞き及び、どれほど感泣したことか。さらにこの瑞機に、彼は従五位上に昇進した。
 
 この詔が天下に公布された後の五月、家持は、国守の館で長編の賀歌を詠んでいる。その歌中で、家持自らも詔のなかの一節「海行かば 水浸く屍 (かばね) 山行かば 草生(む)す屍 大君の 辺にこそ死なめ 顧みはせじ」の言立てを繰り返し引用している。次の歌は、その反歌三首中の二首である。
○ますらをの 心思ほゆ 大君の 
       御言の幸を 聞けば貴み
(雄々しい大夫(ますらお)心が沸き起ってくる。大君のみ言葉のありがたさよ、そのみ言葉を承るとまことに貴くて。)
○大伴の 遠つ神祖(かみおや)の 奥城(おくつき)は
     しるく標(しめ)立て 人の知るべく  (巻十八)
(大伴の遠い先祖の神、その神の墓どころには、はっきりと標(しるし)の杭を立てなさい。代々の人々が知るように。)

 これらの歌には、大仏造立に対する世人の非難など全く眼中になく、聖武天皇に随順することにむしろ歓喜しているのである。その頃の家持の「歌日誌」には、長歌を主流とする旺盛な詠歌のようすが伺える。
 家持は、全般的に国守の任務については、勤勉忠実な仕事ぶりがうかがえるが、その具体的な治績を推測させる史料はない。彼は時代の先端となる教養を身に付けていたが、同時に過去の先祖の栄光に根ざす最も古い意識から離れえない人物でもあった。

日本のアンソロジストたちーー大伴家持伝(13)

2015-04-18 09:35:04 | 日記
日本のアンソロジストたち――大伴家持伝(13) 
  越中国守時代(四) 元正上皇の訃報

 越中守として在任三年次、旧友・大伴池主遷任の後、家持は空虚感をもてあまし、一刻も早い帰京を待ち望むようになっていた。職務として、管下諸郡を巡察することによって、郡司たちと顔見知りになったが、職務を超えて深く交流することはなかった。
○ 砺波(となみ)の郡の雄神(をかみ)の川辺にして作る歌一首
 雄神川 紅にほふ娘子(をとめ)らし 
  葦付(あしつき)取ると 瀬に立たすらし    (巻十七)
(雄神川が紅色に照り映えている。あでやかに装った娘子たちが、今しも葦付(水松の類)を取るとて浅瀬にお立ちのようだ。)
 この歌は、さきに大仏造立のため巨額の米を寄進した砺波臣の本拠地の川の景を、国守家持が詠ったものである。
 諸郡巡察の公務から帰館した後の春、国府の家持のもとに、嘗て家持が宮内少輔であった時の下僚・田辺福麻呂が訪ねてきた。「左大臣橘家の使者」という触れこみであった。幾たびかの歓迎の酒宴が催されたはずであるが、何故か「歌日誌」にはその記載はない。その際、福麻呂から聞いたと思われる元正上皇や諸兄の歌を、数首記録しているだけである。
○橘の とをの立花 八つ代にも 
          我れは忘れじ この橘を   (巻十七)
(橘の中でも枝も撓むばかりに実をつけた橘、この橘をいつの世までも私は忘れますまい。この見事な橘のことを)
 この御製の歌は、元正上皇の難波宮行幸の際、左大臣の私邸に上皇を迎えて宴を張った時のものである。橘諸兄が、藤原仲麻呂の台頭のなかでも、なんとか左大臣の地位に安泰であったのは、上皇の厚い庇護によるものであった。これらの歌は、家持をひとまず安堵させたに違いない。その後、家持自身も上皇と諸兄を寿ぐ次の歌を詠んでいる。
○大君は 常盤(ときは)にまさむ 橘の
             殿の橘 ひた照りにして(巻十七)
(大君はいつまでも変わらずにおわしますことでしょう。この橘家の御殿の橘の実もひたすらに照り輝いていて。)

 しかしながら、その元正上皇は、4月21日、崩御された。この訃報に接し、家持はどれほど痛惜したことか。この後一年あまりは、いっさいの歌を「日誌」に記述していない。

日本のアンソロジストたちー大伴家持伝(12)

2015-04-11 08:28:53 | 日記
日本のアンソロジストたち――大伴家持伝(12) 
  越中国守時代(三)家持の入京

 五月になって家持は、公務を兼ねて、赴任後初めて帰京の旅に出立し、九月になって任地・越中国に帰任した。しかしながら、この間のことについては、彼の「歌日記」には一切記述していない。妻の大嬢以外の在京の女人たちに対しては、もはや相聞歌を取り交わす情熱を失なっていた。また、彼には生来、旅の途上の情景に歌心を掻き立てられることが乏しかったのであろうか。それとも、現実に目撃する情景は、叙景歌として詠むにはあまりに悲惨で言葉を喪ったのであろうか。
 上京の途次、ことに越路から関を越えて近江に入ると、昨年の飢饉の惨状が拡がっていた。近江、大和の疲弊は、目を覆いたくなるほどであった。聖武天皇は、とり憑かれたように大仏の造顕を督励していた。それに応じて、土豪、有力農民のなかには、宗教的意向よりも叙位に曳かれて莫大な私財を寄進するものが次々と現れた。
 
 ともあれ、家持は一年ぶりに京の佐保の邸でくつろぎ、坂上の里の郎女を訪ねて交歓したことであろう。奈良麻呂とも面談し、諸兄左大臣も当面安泰であることに、ひとまず安堵したようだ。

 越中国に帰任したあと、当地では最も気心が通じた知人として、一時は頻繁に長歌を贈答していた大伴池主が、隣の越前国府に転任した。別れの宴の際に、縁故の人々が歌を誦したはずであるが、それも記録には書きとめられていない。
 748(天平二十)年一月になって、ようやく四首の連作を記録しているが、いずれも独詠歌である。その中の二首
○東風(あゆのかぜ) いたく吹くらし 奈呉の海人(あま)の
           釣りする小舟 漕ぎ隠るみゆ        (巻十七)
 (あゆの風が激しく吹くらしい。奈呉の海人たちの釣舟が、あれ、浦蔭に漕ぎ隠れて行く。)
○越(こし)の海の 信濃の浜を 行き暮らし 
           長き春日も 忘れて思へや          (巻十七)
 (越の海の信濃(浜の名である)の浜を、一日中歩き続けたが、こんなに長い春の一日でさえ、片時も妻を忘れてしまったりするものか。)

日本人のアンソロジストたちー大伴家持伝(11) 山柿追随の歌

2015-04-01 11:10:02 | 日記
 日本のアンソロジストたち――大伴家持伝(11) 
  越中国守時代(二)山柿追随の歌

 越中守に赴任してまもない時に見舞われた、弟・書持の訃報と自身の病患は、家持の作歌への意欲を呼び覚ました。次の二首は、「忽(たちまち)に枉疾に沈み、ほとほとに泉路に臨む(黄泉路に向かう瀬戸際に立つ)。よりて、歌詞を作り、もちて悲緒を申(の)ぶる一首」(長歌)の反歌である。
○世間(よのなか)は 数なきものか 
    春花の 散りのまがひに 死ぬべき思へば(巻十七)
(人の世というものはなんとつまらないものなのか。春の花が散り交うまぎれに、はかなく死なねばならぬのかと思うと。)
○山川の そきへを遠み 
    はしきよし 妹を相見ず かくや嘆かむ(巻十七)
 (山や川を隔ててはるか遠くに離れているので、ああ、いとしい妻の顔を見ることもなく、このように嘆いてばかりいなければならないのか。)

 次の歌は、ようやく病いの苦患が和らいで、快方に向かい始めたころ、越中の異郷で唯一人昔か
らの知り合いであった大伴池主への書簡として贈った悲歌二首である。
○春の花 今は盛りに にほふらむ 
     折りてかざらむ 手力もがも(巻十七)
 (春の花は今を盛りと咲き誇っていることだろう。手折って挿頭にできるだけの力がこの手にあればよいのだが。)
○うぐいすの 鳴き散らすらむ 春の花 
     いつしか君と 手折りかざさむ(巻十七)
 (鶯が鳴いてはその声できっと散らしている春の花、その花を一日も早くあなたと一緒に手折ってかざせるようになりたいものだ。)
 これがきっかけとなって、二人のあいだで書簡の往復が始まった。

 病もなんとか癒え、家持は国府の政庁にも姿を見せるようになった。五月には、公務かたがた、上京する予定になっていた。国府の西に横たわる「二上山」があり、この三月の人事異動で、京から越中に赴任した国司たちは、その名前から大和の国の山々が連想され、懐かしく切ない気持に襲われるのを常としていた。
 家持も自身の「歌日誌」に、「二上山の賦一首」を記している。家持のこの時期の歌は、人麻呂、赤人のいわゆる「山柿の門」によって形成された叙景のパターンに忠実でると指摘する人が多い。御説のとおり、いずれもその「先蹤」に導かれての習作と言ってよいと思う。