竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

老いらくの恋遊び

2009-08-26 09:43:31 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・万葉集耕読
  老いらくの恋遊び      (22)

  太宰大監大伴宿禰百代が恋の歌
事もなく 生き来しものを 老いまみに
 かかる恋にも 我れは逢へるかも(巻四)
 今まで平穏無事に生きてきたのに、年よりだてらに、私はこんな苦しい恋を経験するはめになってしまったよ。
  大伴坂上郎女が歌
黒髪に 白髪交じり 老ゆるまで かかる恋には いまだ逢はなくに   (巻四)
 黒髪に白髪がまじるこの老年になるまで、これほど激しい恋心に責められたことはなかったのですよ。

 旅人の妻が亡くなって、異母妹大伴坂上郎  
女が兄の手助けのために、大宰府にやってきた。すでに自分の娘が跡取りの家持の正妻におさまっており、「家刀自(いえとじ)」として大伴家の家事全般を統率する立場になったらしい。
 都では、つとに相聞歌の名手として、もてはやされたほど、美人で恋愛体験も豊富であった彼女は、やや年増になっても、たちまち大宰府の役人のマドンナになった。前の歌の作者もそのファンの一人になったのであろう。早速ファンレターを送った。それに応えて切なく恋心を詠み返して見せたのが後の歌である。
「一所懸命仕事をやってきて年を取ってしまった初心(うぶ)な男が、夢中になって惚れたのだけれど、相手からは、からかわれてしまう。」(大岡信)
だが、私にはそうは思えない。田舎者にも意地と自尊心がある。男の方も始めからひやかし半分であったに違いない。

 辻井喬『虹の岬』は、大実業家から歌人に転じた川田順の「老いらくの恋」を評伝風に描いて、多くの読者の共感を得た。どんな生業であれ、一仕事を終えて現役を退いた高齢者が、この先何を生きがいとして余生を過ごすかは、今日の大きなテーマである。還暦や古希を迎えると、急に青春期を懐かしんで同窓会が盛んになるが、さすがにそれを機に「老いらくの恋」が芽生える例は少ない。諸般の事情を考慮して「灼熱の恋」に発展しなくても、この相聞歌のような恋遊びは許されてよい。甘いことばのやりとりは、無味乾燥な老後に、ほどよい味つけをしてくれるだろうから。      

老いらくの友情

2009-08-19 09:50:35 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・万葉集耕読
  老いらくの友情       (21)

妹が見し 楝(あふち)の花は 散りぬべし
  我が泣く涙 いまだ干(ひ)なくに
            山上憶良(巻五)
 妻が好んで見た楝の花は、いくら奈良でももう散ってしまうにちがいない。妻を悲しんで泣く私の涙はまだ乾きもしないのに

我妹子(わぎもこ)が 植ゑし梅の木
 見るごとに 心むせつつ 涙し流る
            大伴旅人(巻三)
 わが妻が植えた梅の木をながめるたびに、胸がつまって、とめどなく涙が流れる。

 さきに「ワイワイ酒の効用」で、登場した山上憶良(筑前守)と大伴旅人(太宰帥)は、晩年ともに筑紫に赴任し、職務を超えて競い合う歌のライバルであった。二つの歌はともに亡妻挽歌であるが、その成立事情については諸説がある。
 戦後の万葉研究の第一人者とされる伊藤博は、畢生の大著『万葉集釋注』を完成され、まもなく他界されたが、その最後の著書『愚者の賦』で、この挽歌の成立事情について、詳しく説明されている。(因みに『釋注』の刊行にあたっては、「出雲の国の錦織浩文氏が専従研究員として、新妻ともども東京に移住し、身を献じられた」と、「あとがき」の中で、著者本人が謝辞を捧げておられる。)

 筑紫に暮らすこと半年、楝の花の咲く頃、旅人は愛妻の大伴女郎を喪った。その追善供養で、親友の憶良が喪主の旅人になり代わって、いわゆる「日本挽歌」を披露した。その連作反歌の中の一首が前の歌である。
 妻を亡くして三年後、旅人は、憶良らと別れてひとり奈良の都に帰る。かつて妻とふたりで丹精こめて作った庭は木立が生い茂っている。楝の木とともに妻が好きだった梅の木が、いま眼前に花をつけている。旅人は、嘗て筑紫の公館で、憶良が楝の木を眺めながら作ってくれた妻の挽歌を思い起こして、後の歌を詠んだのであろう。
 二つの歌は、それぞれ、憶良六十九歳、旅人六十四歳の作であるが、その叙情は青年のようにみずみずしい。晩年になって、異郷の地、筑紫で邂逅し、歌で結ばれた二人は、すべてを理解しあっていた。まことに妬ましいばかりの「老いらくの友情」である。

醜の御楯(しこのみたて)の本音

2009-08-12 09:02:16 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・万葉集耕読
 醜の御楯(しこのみたて)の本音 (20)

我ろ旅は 旅と思(おめ)ほど 家(いひ)にして 子持(め)ち痩(や)すらむ 
我が妻(み)愛(かな)しも                
 おいら、旅は旅だとあきらめもするけれど、家で子を抱えてやつれているであろう、おれのかあちゃんがいとしくっていとしくって。
    右の一首は坂田部首麻呂(巻二十)

旅行きに 行くと知らずて 母父(あもしし)に 言(こと)申さずて 今ぞ悔しけ  
寒川の郡の上丁川上臣老(巻二十)
 こんな長旅に出るとも思わずに、おっ母さんやお父っつあんにろくに挨拶もしないで出て来てしまって、今になって悔やまれてならない。

 ともに防人(さきもり)と呼ばれた兵士の歌である。防人は、筑紫・壱岐・対馬などの辺境を防備するために東国から派遣された農民である。さきの大戦中には、防人の歌は、例えば「今日よりは 顧みなくて 大君の 醜の御楯と 出で立つ我は(今日からは後ろを振り返って案じたりすることなく、大君の醜の御楯として出立していくのだ、このおれは。)」を取り上げて、大君に対する忠誠の言立ての歌として、出征兵士を鼓舞する時に利用された。その実、万葉集に収められている九十八首の防人の歌は「おしなべて“征くことを厭う歌”の集まりであるといってよい。閉ざされた地縁社会しか知らなかった農民兵にとって、当代律令国家のほぼ端から端までを移動する旅は、あまりにも長く闇かった。歌えば口をつくものは、引き離された故郷への思いでしかない。」(伊藤博)
 
 今年もまもなく終戦の日を迎えると、恒例の追悼行事が催される。私は、父を戦争で喪った靖国の遺児の最後の世代である。あと二十年もすれば、直に戦争の記憶を持つ日本人はほとんどいなくなる。
 当時、わずか五歳のわたしには、亡父の記憶はほとんどなく、父を奪われた遺恨の情も薄い。しかしながら、郷里に父母や妻子を残して、まったく理不尽な死を遂げた亡父の無念が、いかばかりであったかは計り知れない。

夫婦円満の秘訣

2009-08-05 09:45:41 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・万葉集耕読
  夫婦円満の秘訣       (19)

 恋ひ恋ひて 逢へる時だに うるはしき
  言尽くしてよ 長くと思はば
          大伴坂上郎女(巻四)
 逢いたい逢いたいと思って、やっと逢えたその時くらい、おやさしい言葉のありったけをかけて下さい。いつまでも添い続けようとお思いならば。

 坂上郎女は、旅人の妹。娘二人のうち、長女は家持の妻となり、次女は大伴駿河麻呂に嫁した。万葉歌人の中でも有数の相聞歌の名手とされている。
「やっと逢えたのだから、その時こそは、怨みつらみは述べずに、気持ちのいいことばを交わしてほしい。そうすると愛は長続きするが、反対に思いの丈を述べて、かえって気まずくなり、反発し合ってすぐ別れてしまう場合がある。隠しへだてのないのが愛し合っている証拠だと思っているのは幼い。」(中西進)
 さすがに恋愛のエキスパートだけあって、坂上郎女は恋する男女の心理のツボどころを押さえている。しかしながら、この歌は、作者自身の恋愛体験を歌ったものではないという説もある。どうやら、新婚早々で夫の扱いに慣れていないウブな次女のために作った、過保護ママゴンの代作相聞歌であるらしい。

男女間の恋慕の情は、畢竟、実生活とは別次元の観念(大抵は美しい誤解)から導き出されるものである。通い婚が一般で、めったに訪れない夫をひたすら待っている古代の妻妾と違って、今日のように日常、生活を共にする夫婦間では、こうはいかない。
 近ごろ、よく結婚式の祝辞などで引用される吉野弘の「祝婚歌」では、夫婦円満の秘訣をこのように諭している。「二人が睦まじくいるためには/愚かでいるほうがいい/立派すぎないほうがいい/立派すぎることは/長持ちしないことだと気付いているほうがいい」
 夫婦が添い遂げる要諦は、相手の美点を称えるよりも欠点に眼をつぶることだともいうのである。所詮、夫婦の情愛は身を焦がすような恋の想いとは無縁の、いじましい相互の気遣いで辛うじて保たれるものであろうか。