竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

50年前の私の文学史的妄想②

2014-05-28 09:26:42 | 日記
50年前の私の文学史的妄想② 

  2、「歴史」の物語化現象
 序説で触れたように、「歴史物語」を歴史とするか、文学(物語)とするかについては、諸々の見解があり、一定していない。しかし、「作者の執筆上の意図」が、歴史を叙述することにあったか、もしくは、物語を創作することにあったかを判断の基準として考えるならば、「歴史物語」は、歴史であるとしていいのではないか。
 周知のように、平安朝における支配的文学様式は、「物語」であった。「源氏物語」において、この文学様式は、質的に最頂点に達した。そして、それ以後の物語文学は、その亜流でしかないものになった。しかし、量的に見れば「源氏物語」以降も、物語はますます読者にもてはやされたようだ。(このことは、例えば中世に成立した「風葉集」などで明らかである)。このため、当時における文学作品は、すべてこの「物語」を踏襲することになった。作者の創作意識が、「物語」によって影響されたのみでなく、「物語」という流行の文学様式に便乗することが、新作の作品を当時の享受者に容易にうけ入れさせるに好都合であった。こうして、「歌集」も物語化され、「日記」もまた物語化されたのである。「栄花物語」「大鏡」の作者は、ともに「道長時代の歴史」を叙述しようと意図して、執筆をはじめたのであろう。しかし、彼らは、「歴史」を単に「歴史」として記述しなかった。「物語」全盛の時代に、その「物語」と別の形態をとることは、不利なことであったに違いない。そこで作者は、「歴史」を記述することを意図しながら、意識的に「物語」を装ったのであろう。
 今日、「歴史物語」の成立については、虚構による「物語」のゆきづまりの打開策として、歴史的事実そのままを記述する「物語」が誕生したとするのが支配的であるが、むしろそれは逆ではあるまいか。「源氏物語」以降、「物語」は、質的に低下した。しかし、かといって、そのことが、直ちに「物語」の行きづまりだと断定することはできない。むしろ、「源氏物語」は、紫式部という天才によって、はじめて書かれえたもので、文学史的にその出現は突然変異の現象である。現に「物語」は、源氏物語以後において、量的にはますます隆盛になっている。結果は同じことであっても、「歴史物語」は、「歴史的物語」ではなく、「物語的歴史」であるとすべきであろう。従って、今日的意味での「歴史文学」とは異質のものである。「歴史物語」は、あくまで、「歴史」を「物語的体裁」で記述したものなのである。然るに奇妙なことに、同じ「歴史物語」でも「栄花物語」と「大鏡」とでは、その記述様式はまったく異質のものになっている。このことを考える時、わたしは、同じ「歴史物語」でも、様式的には二つの系統があったのではないかという新たな妄想に取り憑かれるのである。。

   3、源氏物語以後における二つの物語の系統
 物語文学における支配的文学様式は、いわゆる「昔物語」の様式であった。そしてそれは「源氏物語」に継承され、その文学性を問えば「昔物語」以上のものにまで高められた。しかし、それはさきにも触れたように、紫式部という天才によってはじめて可能であった。したがって、「源氏物語」を除く物語は、依然として「昔物語」の様式を踏襲したものにすぎなかった。「狭衣物語」「濱松中納言物語」「夜半の寝覚」「とりかへばや物語」などの一連の擬古物語がそれである。
 この一方で、源氏物語の一部から派生した別の「物語記述」の系統があった。源氏物語の「帚木の巻」の「雨夜の品定め」を直接の起源として、「堤中納言物語」の「このついで」に続く「戯曲的結構」による物語記述の系統である。そしてそれは、主として評論的な性格を帯びた物語に多く採用されるところとなった。別の系統の物語様式とまでは言えないとしても、作者や享受者が、なぜこのような異質のスタイルのを容易に受け入れることができたのか。それを可能にさせたのは、当時の社会生活に深く根ざしていた仏教(中でも法華経)である。作者が「戯曲的結構」の様式を創出したのも、享受者がそれをすんなりと受け入れたのも、法華経(あるいは法華八講などの法会の場)に日常的に接していたからなのである。「栄花物語」の作者は、従来どおりの様式に従って記述したが、「大鏡」の作者は、いわば、ニューウエイブに乗ったのである。「大鏡」は、文学様式論の観点から見れば、日本文学史上において、特異な位置を占めていると言っていいと想う。


個人的な事情(2)50年前の私の文学的妄想①

2014-05-24 11:01:22 | 日記
  個人的な事情(2) 50年前の私の文学史的妄想①
    
わたしの大学卒業論文「大鏡構想論」については、すでに昭和37年、広島大学「国語教育研究 第5号」に「大鏡の構造と法華経」として、その抜粋を掲載しているので、ここでは、「あとがき」として記述した部分を掲載する。

 結語にかえてーわたしの文学史的妄想
   1、妄想ということ
 わたしは、この卒業論文をものするにあたって、「文学研究のありかた」について考えることが多かった。ある時は、「文学研究」の方法を見失って動揺し、またある時は、「文学研究」のおもしろさにふれた気がして、狂喜したこともあった。
 いったい、「文学研究」をなす究極の目的は何処に存するのであろうか。なかでも、いわゆる「古典」と呼ばれる「文学」の研究を、自分はどのような方向性を持って取り組めばよいのであろうか。わたしは、つまるところは「自分なりの文学史」を作り上げることではないかと思っている。ここでわたしのいう「文学史」とは、単に作品を年代的に並べたものを指すのではない。わたしたちの「文学研究」は、もとより「社会科学」的手法だけで事足りるものではない。したがって、「文学の歴史」を社会文化史として考察し、体系化したとしても、少なくとも、その本質を極めたことにはなりえない。(古典の文献学的研究が、科学的操作によるものであり、しかも古典研究の重要な一部門を占めることは認めても、それはあくまで、基礎作業、もしくは、うらづけ作業に過ぎない)。文学は、個々の作家によって作られた一つの完結した世界である。したがって、その研究もまた、まずは個々の作品そのものを、直接の対象とすべきである。文学研究者は、なにはさておき、個々の作家なり作品なりの内部に深く潜入することから始めねばならない。しかしながら、個々の作家、個々の作品が、「歴史社会的な存在」であることも否定できない。「歴史」の中に生きる個々の作家によって作り上げられた個々の作品が、その「歴史」と全く没交渉であることは、まず考えられない。多かれ少なかれ、文学作品の中には、「歴史」が反映しているはずである。「歴史」ということばが悪ければ、「その時代人としての生活意識」と換言してもいいだろう。「生活意識」と「創作意識」とは、同じ人生観に根ざすものであることは言うまでもない。わたしは、「文学研究」の基盤となるものは、この作品に内在する作者の「意識」を正しく把握することであると思う。そして、このような「作品」の中に内在する「作者の意識」によって、その「文学作品」を自分なりに体系づけること、そのことをわたしは、「自分なりの文学史」をつくることといったのである。
 さて、わたしがいま、ある文学作品を読もうとするとき、すでにわたしの頭の中には、これまでに創り上げた「わたしなりの文学史」がある。そして、新たに文学作品を読み終えた時、「わたしなりの文学史」は、おのずと修正すべきところが見えてきているはずである。それは、わたし独自の「文学史的妄想」である。もし、わたしが単に文学を鑑賞することを目標としているだけであるなら、この妄想がすなわち、わたしの「文学鑑賞」となる。しかし、少なくとも「文学研究」をめざすのであれば、妄想をそのまま放置しておくわけにはいかない。その妄想が、説得力を持って他人を説得できる「真実」を含んだものでなければならない。そして、妄想が単なる妄想でないということが明らかになれば、そこに一つの「文学研究」が成立する。しかし、それで終了とはいかない。一つの「文学研究」を通して、そこにまた、別の新たなる妄想が生まれる。すなわち、妄想によって、「文学研究」は無限に進展する。
 この卒業論文においても、わたしは妄想から出発して、妄想を単なる妄想でないものにしようと努力した。そして、いま、このささやかな研究に一段落をつけて、私の頭の中にあるものは、また新たな妄想ばかりである。この卒業論文からわたしの得た結果は、ごくありきたりのことで、また、微量なものにすぎなかった。しかし、この微量を踏まえた妄想は、執筆当初の時に比べると、数倍の量になった。それらの妄想を実証することは、今後に残されたわたしの課題である。卒業論文の結語は、すなわち次の研究の出発点の確認であるべきである。しからば、この際、結語に代えて、次の研究の出発点となる、現時点での「文学的妄想」について述べることも、あながち筋の通らないことではないであろう。

個人的な事情

2014-05-19 10:23:59 | 日記
  個人的な事情(1) ブログ開設の経緯
 この「竹崎の万葉集耕読」のブログも、すでに5年を経過したので、「古典耕読」については、ここらで一段落としたい。それにつけても、このブログ開設に係るそもそもの経緯はどうであったのか。この際、そのあたりの「個人的な事情」について、当時の記録から再確認しておきたい。

 地元の高校教師を退職して10年も経つと、現役時代の余波で引き受けていた各種の委員会やOB会の仕事も漸く少なくなり、近頃は外に出かけるのも億劫なってきた。その分、自宅の階段の踊り場の書庫に「積ん読」していた古書の埃を払いながら暇を潰すことが多くなった。
 半世紀も昔の学生時代には、一応「日本古代文学」を専攻としていた。丁度その時期に初版本が出た岩波古典体系本で、入学以前から宿願としていた「源氏物語」を通読し、卒業論文では「法華経」の劇的な結構と対比して、「大鏡構想論」をまとめた。現役の高校国語教師の時代には、専ら大学入試対策の「古文解読指導」に忙殺されて、まともに古典文学と向き合うゆとりはなかった。
 ほとんどの雑務から解放されて本格的な隠居生活に入ってから、そぞろに昔の夢が甦ってきた。そこでとりあえず、随所に朱書きの語釈が付されている「新潮日本古典集成本」を読み始めた。「源氏物語」は、「千年紀」と騒がれていた年に再読し、「古事記」は、地元の商店街が観光戦略の柱にしようと「出雲神話」の勉強会を立ち上げたのに便乗する格好で、その「上巻」を読んだ。しかしながら「老いらく」の迫りくる齢になると、ただ読みとばすだけでは、その片端から忘れてしまう。せめて確かに読んだという、いわば領収書がほしい。こんな年寄りの些細な悩みに、直ちに助言と力添えをくれるのは、順次定年を迎え始めた、嘗てのわたしの母校の「教え子」たちである。彼らから「ブログ」なる「情報発信手段」を教えられ、「ブローガー」に変身した私は、さっそく週1回のペースでこれに書き込むことになった
 これまでの私は、「物語文学」を自分の守備範囲と決め、和歌などの韻文学については、なんとなく敬遠してきた。しかし、丸谷才一も指摘しているように、日本古代文学の主流の形態は、和歌である。それを無視することはできない。かくして私は、多くの先人たちの注釈を参照しながら、「万葉集」「古今集」「新古今集」「金槐集」「山家集」の中から、よく知られている和歌を取り上げ、その歌の要点と私の雑感を書き込んできた。
 ところが、過日、例によって書棚を漁っていると、50年前に書いた私の大学卒業論文と、その論文を批評した恩師の手紙が見つかった。読み返してみると、半世紀も前の私の古典研究によせる思いと今は亡き恩師・稲賀敬二先生の心温まる激励が甦ってきて、しばらくはその興奮を抑えかねるほどであった。稲賀先生は、その後「平安朝文学研究の大御所」となられたが、当時は池田亀鑑に師事された新進気鋭の研究者であり、出雲のお隣の境港(鳥取県)のご出身でもあり、わたしは勝手に親近感を抱いていた。ところが、いよいよ先生のご専門の「源氏物語」が開講される年になって、米国の大学から客員教授として招聘されて、にわかに渡米されてしまった。「源氏物語」は、当時の源氏研究の第一人者とされていた大阪女子大の玉上琢彌先生の集中講義を受け、卒論は、「王朝女流日記文学」の権威・清水文雄先生のご指導を受け、なんとか書き上げることができた。郷里に帰って高校教師になったわたしは、その後帰国された先生に無理にお願いをして、わたしの「卒業論文」を読んでいただいた。その際、稲賀先生から綿密な講評とともに私を激励する手紙を頂いていたのである。すでにあれから半世紀が過ぎているが、いずれも、私にとっては貴重な古文書である。そこで、この「古典耕読」のブログをひとまず終了するにあたり、次回から、私の卒論「大鏡構想論」と恩師・稲賀敬二先生から頂いた手紙の、それぞれ一部分を転写して、公開することにした。


小野の深雪

2014-05-14 16:02:04 | 日記
日本人のこころの歌
 ―続「古今集」耕読・むかし、男の歌(12)

 小野の深雪

 惟喬親王のもとにまかり通ひけるを、頭おろして小野といふ所に侍りけるに、正月に訪はむとてまかりたりけるに、比叡の山の麓なりければ、雪いと深かりけり。しひてかの室にまかりいたりて拝みけるに、つれづれとしていともの悲しくて、帰りまうで来てよみておくりける

忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや
  雪ふみわけて 君を見むとは(巻十八雑歌下)
 親王様が、このような山里にわび住まいをされているとは、いかなこと信じられないで、今だに夢かと思うほどです。かって思ってみたことがあるでしょうか、ふかい雪を踏みわけて、やっと親王様の御尊顔を拝し奉ることができるなどということを。
         (伊勢物語八十三段参照)
 惟喬親王は、更衣・紀静子を母とする文徳天皇の長男であった。7歳の時、祖父・仁明天皇が崩じて、父・文徳が帝位を継いだ。この時、皇太子に立ったのは、女御・明子(藤原北家・良房の娘)の生んだ、生後わずか9か月の二男・惟人(これひと)親王であった。
 やがて文徳天皇が32歳で急逝し、次男の惟仁親王がわずか9歳の若さで清和天皇として即位した。15歳になっていた長男の惟喬親王は、淀川の岸辺の水無瀬に隠棲して交野の渚院などで風流三昧の日々を送るほかなかった。業平をはじめ、友則の父・紀有朋、業平の義弟・藤原敏行など、多くの歌人たちが訪れて歌を詠みあい、和歌復興のサロンとなった。彼らはともに花月を愛し雅やかな歌語を駆使して、政治世界とは別世界に遊んでいた。
 惟喬親王は、29歳の時、「疾(やまひ)に寝(い)ね、頓(とみ)に出家」(「三代実録」)して、その後25年間を比叡山の麓の「小野」で、世捨人として過ごされた。
 その旧主の許へ業平が「雪ふみわけて」訪れたのである。その時の歌である。反語、倒置法を駆使して、久方ぶりの対面を臨場感たっぷりに詠いあげている。「伊勢物語 八十三段」にも、「古今集」とほぼ同じ内容の記述がある。

  今回をもって、「日本人のこころの歌」は、終了とします。次回からは、日本の古典に限定せず「万(よろず)ことの葉」集についての耕読や身辺雑話を掲載する予定です。                         

さらぬ別れ

2014-05-07 09:49:46 | 日記
日本人のこころの歌
 ―続「古今集」耕読・むかし、男の歌(10)

さらぬ別れ

  業平朝臣の母の内親王、長岡に住み侍りけるに、業平、宮仕
  へすとて、時々もえまかり訪はず侍りければ、師走ばかりに
  母の内親王のもとより、頓(とみ)の事とて文をもてまうで
  来たり。あけて見れば、言葉はなくてありける歌
老いぬれば さらぬ別れの ありといへば 
   いよいよ見まく ほしき君かな
 人の世の常として、年をとれば、いやおうなしに永久の別れが来ると言います。それにつけ、このごろますます、あなたに逢いたくてなりません。

  返し             業平朝臣
世の中に さらぬ別れの なくもがな 
   千代もとなげく 人の子のため(巻十七雑歌上)
 世の中に、どうにも避けられない別れなどなければよいと思います。母上に千年も長生きしてほしいとひたすら祈っている私のために
          (伊勢物語八十四段参照)

 業平の実母は、桓武天皇の皇女・伊登内親王である。桓武天皇が平安京に遷都する直前に十三年ほど都としていた長岡に、そのまま住んでいた。業平は、この十年あまり昇進することもなく、新都で単調な宮仕えを続けていた。母とも、ついつい疎遠になっていたのであろう。年の瀬になって、母からの宅急便の歌が届けられた。年が明けると、また一つ齢を加え、このまま老いて行く我が身を嘆いて、死別する前にせめて一目なりと逢いたいという切実な思いがこめられた歌であった。
 人の世の不条理な宿命に、抗うことの空しさを知り尽くしている業平の返歌は、すぐにでも駆けつけたいというような激情を抑えているが、それだけにかえって切実な真情がこめられているように感じられる。

 業平は、父・阿保親王の五男であるが、母・伊登内親王は、業平と叔母・甥の関係にあった。(こんな母子の関係は、古代では異常なことではなかった)「伊勢物語」では、母が子を「ひとつ子(ひとり子)にさへありければ、いとかなしうし給ひけり」と付記して、母子の相愛の情を際立たせている。