50年前の私の文学史的妄想②
2、「歴史」の物語化現象
序説で触れたように、「歴史物語」を歴史とするか、文学(物語)とするかについては、諸々の見解があり、一定していない。しかし、「作者の執筆上の意図」が、歴史を叙述することにあったか、もしくは、物語を創作することにあったかを判断の基準として考えるならば、「歴史物語」は、歴史であるとしていいのではないか。
周知のように、平安朝における支配的文学様式は、「物語」であった。「源氏物語」において、この文学様式は、質的に最頂点に達した。そして、それ以後の物語文学は、その亜流でしかないものになった。しかし、量的に見れば「源氏物語」以降も、物語はますます読者にもてはやされたようだ。(このことは、例えば中世に成立した「風葉集」などで明らかである)。このため、当時における文学作品は、すべてこの「物語」を踏襲することになった。作者の創作意識が、「物語」によって影響されたのみでなく、「物語」という流行の文学様式に便乗することが、新作の作品を当時の享受者に容易にうけ入れさせるに好都合であった。こうして、「歌集」も物語化され、「日記」もまた物語化されたのである。「栄花物語」「大鏡」の作者は、ともに「道長時代の歴史」を叙述しようと意図して、執筆をはじめたのであろう。しかし、彼らは、「歴史」を単に「歴史」として記述しなかった。「物語」全盛の時代に、その「物語」と別の形態をとることは、不利なことであったに違いない。そこで作者は、「歴史」を記述することを意図しながら、意識的に「物語」を装ったのであろう。
今日、「歴史物語」の成立については、虚構による「物語」のゆきづまりの打開策として、歴史的事実そのままを記述する「物語」が誕生したとするのが支配的であるが、むしろそれは逆ではあるまいか。「源氏物語」以降、「物語」は、質的に低下した。しかし、かといって、そのことが、直ちに「物語」の行きづまりだと断定することはできない。むしろ、「源氏物語」は、紫式部という天才によって、はじめて書かれえたもので、文学史的にその出現は突然変異の現象である。現に「物語」は、源氏物語以後において、量的にはますます隆盛になっている。結果は同じことであっても、「歴史物語」は、「歴史的物語」ではなく、「物語的歴史」であるとすべきであろう。従って、今日的意味での「歴史文学」とは異質のものである。「歴史物語」は、あくまで、「歴史」を「物語的体裁」で記述したものなのである。然るに奇妙なことに、同じ「歴史物語」でも「栄花物語」と「大鏡」とでは、その記述様式はまったく異質のものになっている。このことを考える時、わたしは、同じ「歴史物語」でも、様式的には二つの系統があったのではないかという新たな妄想に取り憑かれるのである。。
3、源氏物語以後における二つの物語の系統
物語文学における支配的文学様式は、いわゆる「昔物語」の様式であった。そしてそれは「源氏物語」に継承され、その文学性を問えば「昔物語」以上のものにまで高められた。しかし、それはさきにも触れたように、紫式部という天才によってはじめて可能であった。したがって、「源氏物語」を除く物語は、依然として「昔物語」の様式を踏襲したものにすぎなかった。「狭衣物語」「濱松中納言物語」「夜半の寝覚」「とりかへばや物語」などの一連の擬古物語がそれである。
この一方で、源氏物語の一部から派生した別の「物語記述」の系統があった。源氏物語の「帚木の巻」の「雨夜の品定め」を直接の起源として、「堤中納言物語」の「このついで」に続く「戯曲的結構」による物語記述の系統である。そしてそれは、主として評論的な性格を帯びた物語に多く採用されるところとなった。別の系統の物語様式とまでは言えないとしても、作者や享受者が、なぜこのような異質のスタイルのを容易に受け入れることができたのか。それを可能にさせたのは、当時の社会生活に深く根ざしていた仏教(中でも法華経)である。作者が「戯曲的結構」の様式を創出したのも、享受者がそれをすんなりと受け入れたのも、法華経(あるいは法華八講などの法会の場)に日常的に接していたからなのである。「栄花物語」の作者は、従来どおりの様式に従って記述したが、「大鏡」の作者は、いわば、ニューウエイブに乗ったのである。「大鏡」は、文学様式論の観点から見れば、日本文学史上において、特異な位置を占めていると言っていいと想う。
2、「歴史」の物語化現象
序説で触れたように、「歴史物語」を歴史とするか、文学(物語)とするかについては、諸々の見解があり、一定していない。しかし、「作者の執筆上の意図」が、歴史を叙述することにあったか、もしくは、物語を創作することにあったかを判断の基準として考えるならば、「歴史物語」は、歴史であるとしていいのではないか。
周知のように、平安朝における支配的文学様式は、「物語」であった。「源氏物語」において、この文学様式は、質的に最頂点に達した。そして、それ以後の物語文学は、その亜流でしかないものになった。しかし、量的に見れば「源氏物語」以降も、物語はますます読者にもてはやされたようだ。(このことは、例えば中世に成立した「風葉集」などで明らかである)。このため、当時における文学作品は、すべてこの「物語」を踏襲することになった。作者の創作意識が、「物語」によって影響されたのみでなく、「物語」という流行の文学様式に便乗することが、新作の作品を当時の享受者に容易にうけ入れさせるに好都合であった。こうして、「歌集」も物語化され、「日記」もまた物語化されたのである。「栄花物語」「大鏡」の作者は、ともに「道長時代の歴史」を叙述しようと意図して、執筆をはじめたのであろう。しかし、彼らは、「歴史」を単に「歴史」として記述しなかった。「物語」全盛の時代に、その「物語」と別の形態をとることは、不利なことであったに違いない。そこで作者は、「歴史」を記述することを意図しながら、意識的に「物語」を装ったのであろう。
今日、「歴史物語」の成立については、虚構による「物語」のゆきづまりの打開策として、歴史的事実そのままを記述する「物語」が誕生したとするのが支配的であるが、むしろそれは逆ではあるまいか。「源氏物語」以降、「物語」は、質的に低下した。しかし、かといって、そのことが、直ちに「物語」の行きづまりだと断定することはできない。むしろ、「源氏物語」は、紫式部という天才によって、はじめて書かれえたもので、文学史的にその出現は突然変異の現象である。現に「物語」は、源氏物語以後において、量的にはますます隆盛になっている。結果は同じことであっても、「歴史物語」は、「歴史的物語」ではなく、「物語的歴史」であるとすべきであろう。従って、今日的意味での「歴史文学」とは異質のものである。「歴史物語」は、あくまで、「歴史」を「物語的体裁」で記述したものなのである。然るに奇妙なことに、同じ「歴史物語」でも「栄花物語」と「大鏡」とでは、その記述様式はまったく異質のものになっている。このことを考える時、わたしは、同じ「歴史物語」でも、様式的には二つの系統があったのではないかという新たな妄想に取り憑かれるのである。。
3、源氏物語以後における二つの物語の系統
物語文学における支配的文学様式は、いわゆる「昔物語」の様式であった。そしてそれは「源氏物語」に継承され、その文学性を問えば「昔物語」以上のものにまで高められた。しかし、それはさきにも触れたように、紫式部という天才によってはじめて可能であった。したがって、「源氏物語」を除く物語は、依然として「昔物語」の様式を踏襲したものにすぎなかった。「狭衣物語」「濱松中納言物語」「夜半の寝覚」「とりかへばや物語」などの一連の擬古物語がそれである。
この一方で、源氏物語の一部から派生した別の「物語記述」の系統があった。源氏物語の「帚木の巻」の「雨夜の品定め」を直接の起源として、「堤中納言物語」の「このついで」に続く「戯曲的結構」による物語記述の系統である。そしてそれは、主として評論的な性格を帯びた物語に多く採用されるところとなった。別の系統の物語様式とまでは言えないとしても、作者や享受者が、なぜこのような異質のスタイルのを容易に受け入れることができたのか。それを可能にさせたのは、当時の社会生活に深く根ざしていた仏教(中でも法華経)である。作者が「戯曲的結構」の様式を創出したのも、享受者がそれをすんなりと受け入れたのも、法華経(あるいは法華八講などの法会の場)に日常的に接していたからなのである。「栄花物語」の作者は、従来どおりの様式に従って記述したが、「大鏡」の作者は、いわば、ニューウエイブに乗ったのである。「大鏡」は、文学様式論の観点から見れば、日本文学史上において、特異な位置を占めていると言っていいと想う。