54のパラレルワールド

Photon's parallel world~光子の世界はパラレルだ。

歴史を越える(新選組血風録/司馬遼太郎)

2005年04月12日 | パラソル
私は新選組が好きである。幕末から明治にかけての動乱の時代。漫画「るろうに剣心」がきっかけでこの時代に興味をもった。己の正義のために命をかけて刀を振るう。かっこいい。この「血風録」は短編集なので読みやすい。
私が描く沖田総司像は「るろうに剣心」に出てくる瀬田宗次郎のものだ。外見も声も(声はアニメの)。もともと瀬田のモチーフが司馬遼太郎が描く沖田総司だからというのがその理由だ。なるほど「血風録」を読んでるとまさに瀬田宗次郎である。その口調や性格が瀬田を連想させる。ほかにも原田左之助は相楽左之助を連想させるし、斉藤一はまさに「るろうに剣心」の斉藤一だ。「るろうに剣心」の中で新選組が登場するシーンが少しあるのだが、近藤勇と土方歳三はそのイメージだ。そこに沖田も登場するのだが、宗次郎のイメージの方が強い。
さて、「るろうに剣心」のモチーフが司馬遼太郎なのだが、私の中では司馬遼太郎のモチーフが「るろうに剣心」になっているのである。これは私が司馬遼太郎の作品よりも「るろうに剣心」を先に読んでいるからである。これと似たようなことを音楽でも経験している。B'zの「Don't Leave Me」がAEROSMITHの「Cry'n」に似ているのだが、それを知っているにも関わらずAEROSMITHがB'zに似ているかのように感じてしまう。やはりB'zを先に聴いているからだろう。
ここで言いたいのはそこにオリジナルとクローンの意味がなくなるということだ。司馬遼太郎がオリジナルなのだがクローンである剣心を先に読んでしまったために剣心がオリジナルになってしまっている。知識として司馬遼太郎の方がオリジナルだと知ることはできるが、感覚としては剣心の方がオリジナルである。もはやどっちがオリジナルかなんてどうでもいいことであるような気がする。どっちがオリジナルかは別にして、消費者がどちらを先にとるかでオリジナルとクローンが決まるのではないだろうか。パクリだパクリだという議論はそこでは意味をなさないように私には思える。
複製技術、大量生産、保存技術の向上により、現在のものだけでなく過去のものまでも容易に手に入るようになった。そこに時間軸などはない。1984年の作品も1974年の作品も時間を越えて同じ2005年に存在している。時間軸はそれを消費する者によって形成されていく。
私の中ではB'zより後にAEROSMITHがデビューしている。

話を「新選組血風録」に戻そう。沖田総司のイメージは和月伸宏が描く瀬田宗次郎であり、司馬遼太郎が描く沖田総司なのだが、実際の沖田総司の性格はどうであったのか。宗次郎のように底抜けに明るくかわいい人物だと私は思い込んでいるが、実際は近藤勇のように無口なのかもしれない。しかし歴史小説の面白さはそこにあるのかもしれない。過去の偉大な人物を蘇らせ息吹を吹き込む。司馬遼太郎が創り上げた沖田総司が私は好きだ。現在のように映像として後世に残ってしまえばその楽しみは消え去ってしまうだろう。タイムマシンで過去に戻って確かめるなんていうのも面白くない。科学と文学はそんなわけで対立しているようにみえる。