静かな劇場 

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因果の道理 認めたくない人たち

2011-07-14 18:31:40 | Weblog
(1) 因果の道理が成り立つとどうして言いきれるのか?科学で立証されてもいないことを大宇宙の真理だと信じ込まされているだけではないのか?という非難に答える

●まず、問題をシンプルに整理するならば、

 ・因果の道理は成り立つ   
 ・因果の道理は成り立たぬ

真理は、このどちらかということだ。
どちらも正しいとか、どちらも間違いということはない。

●確かに、因果の道理は科学で立証されているわけではない。
でも、これが間違いと言うなら、
「因果の道理は成り立たぬ」が真理と言っていることになるが、
それは科学で立証されているのか?

立証されてない。

●だとするならば、「科学で立証」云々したところで意味ないではないか?
問題は至ってシンプルなのだから、
「因果の道理が成り立つ」か
「因果の道理は成り立たない」か
そのどちらかを選べばいいのである。

●「信じ込むのは悪いこと、いけないこと」とご注意くださる人もあるが、「信じ込むことは、いけないことだ」とその人も信じ込んでいるのだから、一見、まともに見えて不毛な議論であろう。みんな何かを信じ込んで生きているのである。

●問題は、何を信ずるかであろう。信じ込むこと自体は、別に善でも悪でもない。
詐欺師を信ずれば不幸になるし、尊敬に値する人を信ずれば幸せにもなれよう。

では、一部の人が目の敵のようにして非難する「因果の道理」を信じ込んで何が悪いのか?

一応、念のために言っておくと、因果の道理とは、釈尊の教説であり、仏教の根幹をなす重要な教えである。

●「因果の道理が成り立つ」と信じてる人と、「因果の道理は成り立たぬ」と信じてる人とでは、その生き様、考え方は180度変わるだろう。

●「因果の道理は成り立つ」が大宇宙の真理と信ずる人は、「蒔いた種は必ず生える。蒔かぬ種は絶対生えない」を信じている。
では、どんな種からどんな結果が出てくるか。
その関係を釈尊は、善因善果、悪因悪果、自因自果と教えられている。


●因果の道理、善因善果、悪因悪果、自因自果が大宇宙の真理であると信ずれば、どういう心が出てくるか。「廃悪修善」の心。

●なぜ善因善果、悪因悪果、自因自果を信ずると、廃悪修善の心になるか。

廃悪とは、悪を恐れる。だれしも、悪果は来てほしくない。
悪果は、悪い種から出てくる結果と信じたら、悪い結果の出てくる悪因を恐れる。
悪因悪果、自因自果を信じる心が、廃悪の心。

悪いことをやっても、悪い結果が来るとは限らないでしょう、と思ったら、悪いことは恐くなかろう。

●修善とは、善因善果、自因自果を信ずる心。誰しも善果ほしい。
善果は善因から生じる。それで善因を欲しがる。それが修善。

●善因善果、悪因悪果、自因自果を信ずる心が廃悪修善。

廃悪修善は、因果の道理を真理と信ずる心からしか出てこない。

深く信ずれば信ずるほど、廃悪修善の心は強く、あまり信じていないのなら、それに相応した廃悪修善の心であろう。

●「因果の道理が大宇宙の真理である」と認めるのを拒否する人は、「因果の道理など成り立たない」というのが大宇宙の真理と言いたいわけだろう。

ということは、
蒔いた種は、必ずしも生えない。
蒔かぬ種も時には現れる。
善因が善果を生むとは限らない。
悪因が悪果を生むとは限らない。
自分の蒔いた種が自分に結果をもたらすとも限らない。
それが真理と信じていることになるね。

●もし、因果の道理を大宇宙の真理と受け付けないなら、悪を恐れ、善に努めることにどんな意味があるのだろう?

たとえば、
「善い種を蒔いても、善い結果が来るとは限らない。
だから善いことをしましょう」で通じるか?
「悪いことをしても、悪い結果が返ってくるとは限らない。
だから悪いことはやめましょう」で納得できるか?
「自分のやったことが、自分に返るわけではないから、一生懸命努力しましょう」
と言われて、努力する気になるか?

それは、廃悪修善とは反対の心であり、反対の方角に向かって生きていくことになる。反対のことを信じているのだから当然である。

●では、因果の道理は成り立たないのが真理だと信じている人は、人間の運命の因果関係について、どういう見解でいるのか?

●そんな人は、次の3つの間違った見解に陥ると、釈尊は教えておられる。

人間の運命は、(1)神  (すべて神から与えられる)
(2)運命論(最初から運命として決まってる)
(3)因も縁もない。因果関係はなく、すべては偶然の産物。
のいずれかになる。

●神によって運命が与えられるならば、神に嫌われたら大変である。
神様を怒らせたら、どんな目に遭わされるか分からない。
大学すべったのも、離婚したのも、地震で家が潰れたのも、みんな神様のせい。だとしたら、そのような存在は甚だ迷惑千万であろう。

●運命論。すべて決定してる。だとしたらオリンピックなんて意味のないこと。
運命であらかじめ順位が決まっている。それでも額に汗して一生懸命走る気がするだろうか?
どうせ未来は何も動かない。決まったとおりにしかならないのなら空しくないか?
泣いたり笑ったり、感動したり、決意したり、努力したり、人生のすべてが茶番劇。
未来を変えられないのなら善を為し、悪を戒めることに何の意味があろう。
すべては運命として、決まっているのだから。

●因も縁もない。すべては偶然。
だとするなら、善を為し、悪を戒める努力が無意味になろう。
善いことをしても不幸に、悪いことやっても幸せになれるのなら、善など勧める意味があるまい。

●というわけで、因果の道理は別に科学で立証されてはいないが、だからといって「だまされた!」などと大騒ぎするのも短絡的に過ぎよう。成り立たないことだって立証されてないのだから。

だけど、どうしても「因果の道理は成り立たない」という立場をとりたい、そこにしがみつくような人たちがいるのである。

それもまた自由ではあるけれど、そんなことを信ずる心は、廃悪修善とは逆の心。
信ずれば信ずるほど、その人自身が破滅するし、あなたに同調する人が増えれば増えるほど、世の中全体が混乱し、破滅に向かうことだろう。

してみれば危険な存在である、因果の道理を信じない人は。

●因果の道理を認めない考え方は、お釈迦様の時代からあった。
六師外道といって、六人の外道の親分がいた。
その人達の中には、運命論を言う者もいれば、偶然だと言う人もいた。
それらをお釈迦様は、外道と言われた。
2600年もたってるのに、いまだそんなこと言う人たちがある。

科学だ文明だ、進歩だとか言っているけれど、人間の愚かさは変わらないようである。

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