親鸞学徒というのは、親鸞聖人の正統な教えを「我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり」という人です。
だから、親鸞学徒の集まりである親鸞会の人に、親鸞聖人の教えを尋ねたならば、金太郎飴を切ったように、だれからも同じ返答が返ってくるはずです。また、そうでなければなりません。
ところが今日、浄土真宗の看板を掲げている人たちに、それを期待できるでしょうか。
例えば真宗大谷派を例に取ると、「後生の一大事」という極めて重要なことさえも、僧侶からは、まちまちな答えを聞かされます。
ある人が調査したところ、大別して以下の8通りになったといいます。
(1)今から死ぬまでの一大事。つまり今をどう生きるかの大事。
(2)後生が地獄とは脅しであり、悪行の戒めである。
(3)人は死ねば皆、浄土へ帰ることを言われたもの。
(4)蓮如上人の時代は戦国乱世でこの世は苦しみばかりだった。せめて死んだら安らかな極楽へ往けると、民衆を慰めるために言われたこと。
(5)人間は死ねは無に帰するから、後生の一大事は、今日死語に等しい。
(6)「前念命終 後念即生」(愚禿抄)の後と生をとって作った略語。
(7)後生とは、我々の子孫が生きていく後の世のことである。
(8)後生を実体化するのではなく、飽くまで命の一大事ということ。
これ以外にもあるのでしょうが、こんな大事な教義さえも一枚岩でないことを知ってもらえばそれで十分です。
では、後生の一大事とはどういうことか。蓮如上人にお聞きしてみましょう。
<聖人の御流は、たのむ一念の所肝要なり。故に「たのむ」ということをば代々遊ばしおかれ候えども、委しく何とたのめという事を知らざりき。然れば前々住上人の御代に、『御文』を御作り候て、「雑行を捨てて、後生助けたまえと一心に弥陀をたのめ」と明らかに知らせられ候。然れば御再興の上人にて在すものなり> (御一代記聞書)
まず、親鸞聖人の御流(教え)は、たのむ一念の所肝要なり。と仰っています。
「肝要」とは、要の中の要であり、最も重要なことをいいます。
そしてその肝要たる「たのむ一念」を、
「雑行を捨てて、後生助けたまえと一心に弥陀をたのめ」
と明らかにしておられます。
ではこの「後生助けたまえ」の「後生」とは何でしょうか。
『帖外御文』には、
「後生という事は、ながき世まで地獄におつることなれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし」
と教えられています。
ここから「後生の一大事」とは、枝葉末節な問題ではなく、親鸞聖人の御流の「肝要」と深く関わっていることがお分かりになると思います。
その「後生の一大事」でさえ、解釈がこんなバラバラの状態で、どうして教えの「肝要」を示せるのでしょうか?
今日の真宗界は、お互いに教えの肝要を誤解し、お互いに違ったことを教えているにもかかわらず、それを許し合い、容認し合っている。それでいて親鸞会に対してだけは、まるで人が変わったように結束し、容赦ない非難を浴びせてきます。
ここから何が透けて見えるでしょう?
それは、
彼らにとって、親鸞聖人の教えはあっち向こうがこっち向こうが、本音の部分でさほど重要と思っていないということです。一見、教えを問題にしているような人たちもありますが、本当に教えを大事と信じているのなら、上記のような、教えの肝要において様々な解釈が、放任されるはずがありません。とっくに内部でバトルロイヤル状態になっていることでしょう。
もちろん彼らも、親鸞聖人の教えを信じているとは言っていますが、それは蓮如上人のように、「(親鸞聖人の教え)の外には何れの法を信ずというとも、後生の助かるということ、ゆめゆめあるべからず」とまで信じているわけではなく、他の人生観より優れている、より良い生き方ができる、という程度に信じているという意味なのでしょう。
だから、「人それぞれで良いではありませんか。他人の考えも尊重すべきでしょう」と、まるで世間事と仏法を混同して、すましておれるのです。
では、なぜ
内部で教えが混乱していても許しておれるのに、親鸞会の存在だけは許せないのでしょうか。
そこが問題です。
それは彼らにとって、教えより、もっと優先して、重要と考えているものがあるということです。
そう、そこにこそ彼らの「信仰」の核があると考えられます。
だから、親鸞学徒の集まりである親鸞会の人に、親鸞聖人の教えを尋ねたならば、金太郎飴を切ったように、だれからも同じ返答が返ってくるはずです。また、そうでなければなりません。
ところが今日、浄土真宗の看板を掲げている人たちに、それを期待できるでしょうか。
例えば真宗大谷派を例に取ると、「後生の一大事」という極めて重要なことさえも、僧侶からは、まちまちな答えを聞かされます。
ある人が調査したところ、大別して以下の8通りになったといいます。
(1)今から死ぬまでの一大事。つまり今をどう生きるかの大事。
(2)後生が地獄とは脅しであり、悪行の戒めである。
(3)人は死ねば皆、浄土へ帰ることを言われたもの。
(4)蓮如上人の時代は戦国乱世でこの世は苦しみばかりだった。せめて死んだら安らかな極楽へ往けると、民衆を慰めるために言われたこと。
(5)人間は死ねは無に帰するから、後生の一大事は、今日死語に等しい。
(6)「前念命終 後念即生」(愚禿抄)の後と生をとって作った略語。
(7)後生とは、我々の子孫が生きていく後の世のことである。
(8)後生を実体化するのではなく、飽くまで命の一大事ということ。
これ以外にもあるのでしょうが、こんな大事な教義さえも一枚岩でないことを知ってもらえばそれで十分です。
では、後生の一大事とはどういうことか。蓮如上人にお聞きしてみましょう。
<聖人の御流は、たのむ一念の所肝要なり。故に「たのむ」ということをば代々遊ばしおかれ候えども、委しく何とたのめという事を知らざりき。然れば前々住上人の御代に、『御文』を御作り候て、「雑行を捨てて、後生助けたまえと一心に弥陀をたのめ」と明らかに知らせられ候。然れば御再興の上人にて在すものなり> (御一代記聞書)
まず、親鸞聖人の御流(教え)は、たのむ一念の所肝要なり。と仰っています。
「肝要」とは、要の中の要であり、最も重要なことをいいます。
そしてその肝要たる「たのむ一念」を、
「雑行を捨てて、後生助けたまえと一心に弥陀をたのめ」
と明らかにしておられます。
ではこの「後生助けたまえ」の「後生」とは何でしょうか。
『帖外御文』には、
「後生という事は、ながき世まで地獄におつることなれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし」
と教えられています。
ここから「後生の一大事」とは、枝葉末節な問題ではなく、親鸞聖人の御流の「肝要」と深く関わっていることがお分かりになると思います。
その「後生の一大事」でさえ、解釈がこんなバラバラの状態で、どうして教えの「肝要」を示せるのでしょうか?
今日の真宗界は、お互いに教えの肝要を誤解し、お互いに違ったことを教えているにもかかわらず、それを許し合い、容認し合っている。それでいて親鸞会に対してだけは、まるで人が変わったように結束し、容赦ない非難を浴びせてきます。
ここから何が透けて見えるでしょう?
それは、
彼らにとって、親鸞聖人の教えはあっち向こうがこっち向こうが、本音の部分でさほど重要と思っていないということです。一見、教えを問題にしているような人たちもありますが、本当に教えを大事と信じているのなら、上記のような、教えの肝要において様々な解釈が、放任されるはずがありません。とっくに内部でバトルロイヤル状態になっていることでしょう。
もちろん彼らも、親鸞聖人の教えを信じているとは言っていますが、それは蓮如上人のように、「(親鸞聖人の教え)の外には何れの法を信ずというとも、後生の助かるということ、ゆめゆめあるべからず」とまで信じているわけではなく、他の人生観より優れている、より良い生き方ができる、という程度に信じているという意味なのでしょう。
だから、「人それぞれで良いではありませんか。他人の考えも尊重すべきでしょう」と、まるで世間事と仏法を混同して、すましておれるのです。
では、なぜ
内部で教えが混乱していても許しておれるのに、親鸞会の存在だけは許せないのでしょうか。
そこが問題です。
それは彼らにとって、教えより、もっと優先して、重要と考えているものがあるということです。
そう、そこにこそ彼らの「信仰」の核があると考えられます。
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