昭和3年、治安維持法の改悪を契機に、政府は大々的な宗教・思想弾圧に乗り出した。
大本教事件は、その一つである。
大本教は明治25年に、出口なおという女が創設した神道系の新興宗教である。
天皇を崇拝することで国家の統制を目指していた当時の日本にあって、大本の教義や活動内容は、皇室の尊崇と相容れなかった。
大正10年、第一次大本事件が起きる。
そのしばらく前から、世間では「大本教」にまつわる、根拠のない不穏な噂が流れていた。武器を購入し内乱を準備している。青年の白骨死体が見つかった。秘密の部屋で婦人を姦淫している、などなど。「取り締まってほしい」という世論の後押しを受けて、警察隊約200名が本部に突入する。不敬罪などの容疑で役員を一斉に取り調べ、また施設内の捜索も始まった。詳細は省略するが、この時の弾圧で、神殿は取り壊された。
しかし、大本教はその後も信者を増やし続け、勢いを取り戻していく。
戦争が色濃くなってきた昭和10年、再び弾圧が開始される。
政府は教祖はじめ幹部30名を一斉検挙。取り調べに際しては厳しい拷問が行われ、16名が獄死、または発狂した。そして今度は、彼らの施設という施設をすべて、破壊にとどまらず、存在した形跡さえ消滅させた。これが第2次大本事件といわれるものである。
当時の破壊の様子を信者は回想する。
「神殿の柱など、こまごまに切りさいなまれ、おまけに風呂屋の焚き物にされ、教祖の住居も、着物も、机も、その上ご苦労にも手洗い鉢まで、教祖が使用したという、ただそれだけのことで壊されました……」
いくつもあった神殿は、1500発のダイナマイトで破壊され、ワイヤーで引き倒され、ハンマーで粉々に砕かれた。開祖の墓は掘り起こされ、納骨堂も破壊された。歌碑の文字は削られ、礎石はひっくり返され、池は埋められグランドとなり、〃神域〃は根こそぎ潰され、地形すら抹消された。
弾圧後、拠点を訪れた作家の坂口安吾は『日本文化私観』にこう記している。
〈上から下まで、空濠の中も、一面に、爆破した瓦が累々と崩れ重っている。茫々たる廃虚で一木一草をとどめず、さまよう犬の影すらもない。四周に板囲いをして、おまけに鉄条網のようなものを張りめぐらし、離れた所に見張所もあった……(中略)とにかく、こくめいの上にもこくめいに叩き潰されている〉
大本教は、いうなれば、スケープゴート(生け贄)にされたのである。
この事件が、当時の宗教界を震撼させたのは想像に難くない。
ほとんどの宗教は、自ら進んで政府や軍部の方針に賛同し、〃提灯持ち〃をつとめるようになる。真宗界もその例外ではなかった。こういう国家権力の横暴に対し、地方には気骨のある僧俗もあったのだろうが、法主はじめ、本山の〃偉い〃学者たちが皆、縮み上がってしまい、親鸞聖人が命に懸けて開顕してくだされた「一向専念無量寿仏」の教えを、国体に反するからという理由で、自分たちでねじ曲げていったのである。「学者」だから、そこにもっともらしい理由をくっつけて……。
大本教事件は、その一つである。
大本教は明治25年に、出口なおという女が創設した神道系の新興宗教である。
天皇を崇拝することで国家の統制を目指していた当時の日本にあって、大本の教義や活動内容は、皇室の尊崇と相容れなかった。
大正10年、第一次大本事件が起きる。
そのしばらく前から、世間では「大本教」にまつわる、根拠のない不穏な噂が流れていた。武器を購入し内乱を準備している。青年の白骨死体が見つかった。秘密の部屋で婦人を姦淫している、などなど。「取り締まってほしい」という世論の後押しを受けて、警察隊約200名が本部に突入する。不敬罪などの容疑で役員を一斉に取り調べ、また施設内の捜索も始まった。詳細は省略するが、この時の弾圧で、神殿は取り壊された。
しかし、大本教はその後も信者を増やし続け、勢いを取り戻していく。
戦争が色濃くなってきた昭和10年、再び弾圧が開始される。
政府は教祖はじめ幹部30名を一斉検挙。取り調べに際しては厳しい拷問が行われ、16名が獄死、または発狂した。そして今度は、彼らの施設という施設をすべて、破壊にとどまらず、存在した形跡さえ消滅させた。これが第2次大本事件といわれるものである。
当時の破壊の様子を信者は回想する。
「神殿の柱など、こまごまに切りさいなまれ、おまけに風呂屋の焚き物にされ、教祖の住居も、着物も、机も、その上ご苦労にも手洗い鉢まで、教祖が使用したという、ただそれだけのことで壊されました……」
いくつもあった神殿は、1500発のダイナマイトで破壊され、ワイヤーで引き倒され、ハンマーで粉々に砕かれた。開祖の墓は掘り起こされ、納骨堂も破壊された。歌碑の文字は削られ、礎石はひっくり返され、池は埋められグランドとなり、〃神域〃は根こそぎ潰され、地形すら抹消された。
弾圧後、拠点を訪れた作家の坂口安吾は『日本文化私観』にこう記している。
〈上から下まで、空濠の中も、一面に、爆破した瓦が累々と崩れ重っている。茫々たる廃虚で一木一草をとどめず、さまよう犬の影すらもない。四周に板囲いをして、おまけに鉄条網のようなものを張りめぐらし、離れた所に見張所もあった……(中略)とにかく、こくめいの上にもこくめいに叩き潰されている〉
大本教は、いうなれば、スケープゴート(生け贄)にされたのである。
この事件が、当時の宗教界を震撼させたのは想像に難くない。
ほとんどの宗教は、自ら進んで政府や軍部の方針に賛同し、〃提灯持ち〃をつとめるようになる。真宗界もその例外ではなかった。こういう国家権力の横暴に対し、地方には気骨のある僧俗もあったのだろうが、法主はじめ、本山の〃偉い〃学者たちが皆、縮み上がってしまい、親鸞聖人が命に懸けて開顕してくだされた「一向専念無量寿仏」の教えを、国体に反するからという理由で、自分たちでねじ曲げていったのである。「学者」だから、そこにもっともらしい理由をくっつけて……。