静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

押し込められた思い

2009-11-02 19:55:02 | Weblog
■男心は哀しい

 彼は、サラリーマンである。
 ひそかに彼が見くだしていたBが、人事異動で、同期から、初めて課長に昇進した。
 彼は、ショックを受けた。
 だが彼は、Bにかけよって、
「おい、おめでとう。よかった、よかった」
と、肩をたたいて握手を求めた。
 負けたくやしさを、無理にがまんして、まったく平気なように演技する。
 さらに、おきざられ組は、当然のように集まってBの祝賀会を催す。
 お互いに、ヤセがまんしたことを、他人に知られたくないという思いは同じである。
 屈辱を自覚するのが怖いのだ。ある線まででくいとめたい。男心は哀しいではないか。

(『光に向かって100の花束』ヤセがまんではすまなくなる)

■自分自身が分からなくなる

人間だれしも、職場や家庭、その他いろいろな場面で、他人の目を意識し、自分の思いにウソをついて演技をしています。その演技が積もり積もってくると、自分自身でも、自分の本当の思いがどこら辺にあるのか分からなくなってしまうことがあります。
強迫観念的に「あるべき自分」に縛られて、「ありたい自分」を押し殺していると、いくら一生懸命やっていても自分の人生を生きているという実感が沸かず、充実感もなくなり、だんだん無気力になっていきます。こういう人は、表面的には無気力で大人しくしていますが、内面には恐るべき怒りのパワーを日々鬱積しており、それが臨界点に達すると突如爆発し、自分を縛り、押し込めてきたと思われる一切(本人がそう思いこんでいる場合が多いのですが)に、人が変わったように反逆の刃を向けることがあります。
要するに、キレる、ということです。

■怒りは無謀に始まり、後悔に終わるものだ

一旦、怒りを爆発させてしまった人をたしなめることは難しいです。
だれしも経験あることですが、怒りにまかせて言ったこと、やったことで、あとになって「あの時、ああ言ってよかった、あのようにしてよかった」と思えることがあったでしょうか?

恐らくないでしょう。大概は後悔です。

怒り狂っている時は、自分こそが正義で、間違っているのはアイツだとしか思えないものです。だからその時は、今の己を貫ければ、あとはどうなっても構わない!とさえ思えるのでが、怒りが収まれば、焼け野原にぽつねんと立つ自己を発見するのみです。

でも覆水盆に帰らず。一旦、口から出てしまったことは、もう元には戻せませんから、言ってしまった手前、引くに引けず、とことん行き着くべき所まで行ってしまうものです。それが恐いです。


■ではどうすれば?

まずは怒りをためないことでしょう。
そのためには、押し殺している自分の思いに、まず自分自身がよく耳を澄ますことだと思います。だれかがそれを受けとめないと、行き場を失ったその心は、いびつな形で爆発する可能性があるからです。

どんな思いであろうと、それが自分の正直な思いならば、頭ごなしに否定したり、押し殺さずに、まずは自分自身がそれをしっかり受け止めてやる。その上で、その思いは因果の道理に照らしてどうだろうか?と自問してみるべきではないでしょうか。どう自問するか、それは今までここに書いてきた通りです。
そういう中で、自身の愚かさを知らされ、怒りや不満も収まり、因果の道理にかなった道筋が自ずと見えてくると思うのです。

因果の道理が納得できないなら、まずは納得できるまで聞かれることです。
納得できないという人は、必ず誤解があるのです。だからまずその誤解を解く。それはとても大切なことです。
因果の道理など真理とは言えないと公言する人には、分かってほしかったです。自分の愚かさに気づくこともなければ、この先、ことあるごとに爆発し、ブレーキの壊れた弾丸列車のように、行き着くところまで行ってしまうのですから。

次回は、押し殺している自分の思いに気づかせ、それを解放することを目的とし、それがあたかも仏教の救いであるかのように言う人たちがありますので、それについて触れたいと思います。
仏教の真の救いとはそんなものではありませんし、真実の自己とはそういうものでもないのです。(つづく)

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