静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

紛らわしい?本当の自分

2009-11-03 20:00:30 | Weblog
内観という精神修養の道場があります。これは一種の自己反省法であり、そこでも「本当の自分に出会える」とうたわれています。
そこでは、内観道場に籠もり、1週間ほど集中的に自己を見つめさせられるのだそうです。

すると、外ばかり向いていた目が内に向き、他人を恨んだり妬んだり、他人の評価ばかり気にしていた自分が、やっと自己を客観視できるようになる。それまで感情に支配されて見えなかったものが見えるようになり、新しい自己を発見をする。そうすると、それまでのわだかまりが解消し、自分自身を受け入れられてコンプレックスからも解放される。こうしてしばしば劇的な人生観の転換を起こすこともある、ということです。

内観には宗教色は無く、一つの心理療法として確立し、精神的な疾患を好転させるのに一定の効果をあげているようですから、内観自体をあれこれいうつもりはありません。

ただ、申し上げておきたいのは、仏教で知らされる真実の自己とは、内観することで出会えるという「本当の自分」とは、全く次元を異にするものだということです。

さらに言えば、この内観とは、浄土真宗で異安心といわれるグループの「身調べ」から発生したものといわれます。詳細はここには書きませんが、随分、危険な香りのする話ではありませんか。


お釈迦さまは、因果の道理を明らかにされました。そして、
「因果応報なるが故に来世なきに非ず、無我なるが故に常有に非ず」(阿含経)
とあるように、過去世、現在世、未来世の三世を貫く永遠の生命を説いておられます。
さらに、
「過去の因を知らんと欲すれば現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲すれば現在の因を見よ」(因果経)
と説かれ、過去の自己、未来の自己を知りたければ、現在の自己を徹見せよ、と教えられています。

では現在の自己とはいかなるものか?

そこでお釈迦さまが勧められていることこそ重要ではありませんか。
少なくともそれは内観のようなものではありません。

因果の道理から導かれる当然の結論が、廃悪修善(悪をやめ、善を修めよ)です。
廃悪修善といいましても、道徳倫理でいわれるところの廃悪修善とは異なります。
道徳倫理では、体や口の行いこそが重要で、心は無罪放免、問題とはされません。しかし仏教で説かれる廃悪修善は、反対に心こそが重要で、問題とされることは2、3日前、ここにも書きました。

さて、

未来の自己を知りたければ、現在の自己を徹見せよ、と説かれたのも釈尊。
成道されて45年間、そのほとんど廃悪修善を説き続けられたのも釈尊です。

後生(死後)は万人の100パーセント確実な未来です。自分のこれから行く先ではありませんか。
その後生が一大事なのか、それとも一大事ではないのか、これほどの大問題、ハッキリさせるのに廃悪修善を説くのは間違っているのでしょうか。
間違っていると言うのなら、それは釈尊の間違いでしょう。
また、もっと近道があると言うのなら、その人は釈尊以上の先生なのだと思われます。

廃悪修善を説く以外に、どうやって自惚れ強い私たちに、自己の姿を知らしむことができるのでしょう?
自己を知らずして、どうして我が身の後生の一大事が問題となるでしょう?

親鸞聖人のみ教えを一言で言えば、捨自帰他(自力を捨てて他力に帰せよ)です。
でも、後生の一大事が問題にもなっていない人には、自力も他力も、問題となりようもないのではありませんか。
だからここで、粛々と因果の道理を書き続けているのです。

さて、真実の自己を知らされたように言いながら、廃悪修善を説くことを非難している人たちは、おそらく、内観で知らされるような自己と、真実の自己とを混濁しているのだと思われます。
(つづく)

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