静かな劇場 

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大無量寿経 三毒訓戒

2009-10-18 15:13:13 | Weblog
嫌なことがあると他人をうらみ、世の中を呪い、あるいは、勝るをねたみ、嫉妬する因果の道理に暗い愚かな心を、仏教で愚痴といいます。

その愚痴の苦をあげ、これを戒められる『大無量寿経』の三毒段を紹介しておきます。原文のままでは難しいので、現代語に訳したものにしました。
(引用:『浄土三部経の意訳と解説』高木昭良)


 このような世の人たちは、善い行いをすれば善い報いが得られるということを信ぜず、人が死ねば次の世に生まれ変わり、恵みを施せば福が得られるということをも信ぜず、善悪因果の道理も全く信じないで、むしろそのようなことはないと言い張り、最後までこれを認めないで頑張っている。

 こういう見解にとどまっているので、子孫も代々これを見習い、先祖と同じように因果の道理を信じないで、親たちの間違った考えを次から次へと受け継いでゆくのである。もともと先人も祖父も、善を修めることもなく、また道徳の教えもわきまえないので、心も狭く智慧も開けていないから、生死善悪の道理を見極めることもできず、またそれを言って聞かせるという人さえもいない。

 そして各自がそれぞれ吉凶禍福をまねいていながら、だれ一人としてそれを不審と思っている者さえいないのである。

 まことに生死の道理は不変であって、あるいは親が子に別れて泣き、あるいは子が親を失って泣き、兄弟・夫婦もたがいに死に別れて泣きあっている。逆縁、順縁うちつづく世のありさまが、まさに無常の道理である。すべてははかなく消え去るもので、生命はいつまでも保つことができない。この道理をいかに説き聞かせても、一向にこれを信じようともせず、そのためいつまでも生死を輪廻し、とどまることさえもできないのである。

 このような人は、心が愚かで道理に暗いため、経法をも信ぜず、将来のことをまったく考えず、ただ目前の楽しみばかり貪っている。すなわまち愛欲にまどい、道徳もわきまえず、怒り狂って、物欲と色欲を貪ることはまさに狼のようである。このため道を得ることができず、再び三悪道に沈んで、生死流転は限りがない。まことに痛ましいきわみである。

 一家のうちで親子・兄弟・夫婦など、ある者が死に、ある者が生き残りなどすると、たがいに相悲しみ、恩愛の情にしばられ、憂いのために胸はふさがり、愛着のために心を痛め、互いに情けを交わしあうのである。

 日は過ぎ、年は改まっても、その悲しみの解ける時とてはなく、道を説き聞かせても、心の開く時がない。かつての情にほだされて、いつまでもその執着にとらわれている。心が暗く閉じ込められ、愚かな惑いにおおわれているので、深く思いをめぐらし、心を自ら正しくし、仏道を精進して世事を思い切ろうという決意もおこらない。

 こうしてうろうろしているうちに一生も過ぎ、いよいよ命が終わろうとする時、あわてて道を求めようとしても、今さらどうすることもできないのである。

 すべて世は濁り、人の心も愛欲に満ちているので、道に惑う者が多く、これを悟る者はまことに少ない。世間のものはすべてあわただしく、何一つとして頼りになるものはない。それにもかかわらず、尊い人も卑しい人も、地位の高い者も低い者も、富める者も貧しい者も、生計のためにつとめ苦しみ、欲のために害心を抱き、悪心がむらむらと起こって、血を見るような惨事を招こうとする。天地の道理に背いて、人倫の心に従わないのである。

 このような人は、前世の罪業によって、自然と悪縁をまねき、さらに思いにまかせて悪を行うから、とうとうその罪が重なって、決まった寿命のつきないうちに、たちまち生命を奪われて悪道に堕ち、生々世々と苦しみ境界を経めぐり、数千億劫という長い間、浮かび出ることもできないのである。その痛ましさは、とても言葉などでは言い表せるものではない。まことに哀れむべきことである。

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