~ 夢の途中 ~

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感動の一冊

2012年03月01日 | せつない話

是非読んで頂きたい一冊です。




07年夏の第89回全国高校野球選手権大会。初出場の大分代表・楊志館(大分市)で、佐藤翔司(18)は2年生ながら二塁手レギュラーとして甲子園の土を踏んだ。

 今は大分市内の機械製造会社に勤め、会社の軟式野球部に所属する。高校時代の写真を収めたA4判のファイル。佐藤の宝物だ。最後のページに入った「ありがとう」の5文字を書いたのが、マネジャーだった大崎耀子(あきこ)。20人いた同級生で、彼女だけが甲子園に行けなかった。

   

 06年、高1の春。「趣味は体を動かすことです」。新人マネジャーのあっこが自己紹介した。キャッチボールのフォームがきれいだった。

 「野球、しよったん?」

 「中学んときソフトしよったんよ。うまいやろ」

 よく笑う子だなと佐藤は思った。

 バッティングが苦手な佐藤は高1の頃、毎日、居残りでティー打撃をこなした。トス役は、あっこに頼んだ。要求した高さにうまく投げ分けてくれたし、「今のは肩が開いちょったよ」と的確なアドバイスもくれた。連日300球前後のティー打撃が、夜10時過ぎまで続いた。

 高2の6月の福岡遠征。初日の練習試合で佐藤は無安打に終わった。愚痴をこぼすと、「明日もあるやん。明日打てばいいよ」と励まされた。翌日の試合、2本のヒットを打てた。

 遠征から戻ると、あっこは学校を休み始めた。「のどが痛い」と言っていたので風邪かなと思っていた。数日後のミーティングで、あっこは部員の前で切り出した。

 「私、がんが見つかったんよ。これから入院する」

 上咽頭(じょういんとう)がん。のどの上あたりで見つかった腫瘍(しゅよう)はすでに末期の大きさだった。

 夏の大分大会。チームは一つ勝つごとにウイニングボールに寄せ書きして病室のあっこに届けた。甲子園初出場を決めた決勝戦。スタンドから教師の1人が携帯電話で試合の状況を逐一、伝えた。あっこは病院の廊下で携帯を耳に当て、泣きながら一緒に校歌を口ずさんだ。

 あこがれの甲子園。佐藤は初打席でスクイズを決め、チームは8強まで駆け上がった。だが、あっこは福岡の病院で放射線と抗がん剤による治療を続けていた。退院したのは高2の秋。年明けには腰に転移が見つかった。また治療を始めれば最後の夏に間に合わなくなる。あっこは「治療はやめる」と両親に告げ、部活に戻った。

 体調が悪くて授業に出られない日も、「グラウンドに来ると元気になる」と言って練習に顔を出した。前よりも色白でやせた顔に、感染症防止の白いマスクを着けていた。それでも、明るい笑顔は変わらなかった。佐藤は努めて普通に接した。「ボール取って」「水ちょうだい」。他のマネジャーに頼むのと同じように、あっこに頼んだ。

 新チームで主将になった佐藤は部員に繰り返した。

 「絶対もう一度、甲子園に行こう。去年行けなかったあっこを連れて行こう」

   

 08年7月5日。高校最後の夏の大分大会。楊志館の初戦は開幕戦となった。あっこは念願だった公式戦初のベンチ入りを果たした。

 甲子園経験者7人を擁する楊志館は苦戦を強いられた。7回表で3―8。その裏、先頭打者が安打で出塁した。「絶対打ってくるからな」。佐藤はあっこにそう言い残し打席に向かった。

 4球目の直球を力の限り振った。ボテボテのゴロが遊撃手の正面に転がった。次の回に4点を失い、コールドで負けた。佐藤は泣きじゃくり、ベンチに戻った。

 「ごめん、あっこ。甲子園に連れて行けなくて」

 「いいよいいよ、よく頑張ったよ」

 佐藤のユニホームのすそをつかみ、あっこも泣いた。

 容体が急変したのは3カ月後。気道を切開し声も出なくなったあっこは、画用紙に震える手で「ありがとう」と書き監督に託した。そのコピーを全部員が受け取った。

 08年10月29日、あっこは亡くなった。

   

 今年6月14日、佐藤は2番遊撃手として社会人軟式野球の公式戦に初出場した。初戦に勝ち、大分県大会出場をかけた地区代表決定戦の試合。9回1死一塁で併殺に倒れ、最後の打者になった。

 好機に打てない自分が嫌になる。そんな時、佐藤はあっこが教えてくれたことを思い出す。いつも笑顔を絶やさず前向きでいること、明日は打てると信じることを。

(朝日新聞より)

                       
楊志館の主将佐藤翔司は                          大崎耀子さんが書いた「ありがとう」の文字
マネジャー大崎耀子の肩にそっと手を置いた

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