郷土教育全国協議会(郷土全協)

“土着の思想と行動を!”をキャッチフレーズにした「郷土教育」の今を伝えます。

「太陽のない街」の夜学校 (小石川・子ども風土記ー15)

2019年03月04日 | 機関誌
 明治末から大正そして昭和の初めにかけて、小石川は貧しい人たちのたくさん住む町でした。徳永直は、その著「太陽のない街」で、そんな町のようすを次のように書いています。
 

「・・・殿下は、興味深そうに聴いていられたが、フト校長へ言葉をかけられた。
 ー向こうの山と、此方の山との間に、谷がある訳だが・・・見たいものじゃ。
 -ハッ。
 と言ったが、老校長は恐縮してしまった。白髪の、ろ頂部まで禿げ上がった額へ、そっと手を当ててから、思いきったように申しあげた。
 ーえ、以前は千川上水と申しまして、立派な渓谷の形態を保ち川も綺麗でありましたが、現在は、田んぼや河ふちを埋めたてまして工場も出来、町も四つほど出来まして、三・四万の町民が生活いたしております。
 ーしかし幸いなことに、殿下は、それだけの御下問で足を移された。老校長はホッとした。
 ・・・あのやっと一平方哩にも足りない谷底に、東京随一の貧民窟トンネル長屋が有り、十数年前の千川上水が、現在ではあらゆる汚物を呑んで、梅雨期と秋のりん雨には、定まって氾濫しては、四方の町民      を天井へ吊るし寝床を造らせている・・・。
 目下の大同印刷争議が、日々に悪化し、予期し得ざる危険が‪今夜‬にも勃発しないとも限らない現状を、かの老校長といえども知らざるを得なかったからだ。
 太陽は、山から山へかくれんぼした。 
 「谷底の街」は事実「太陽のない街」であった・・・。」
 
 
 この「太陽のない街」にひとつの夜学校がありました。
 この「御殿町尋常夜学校」には三クラス、八十一名の子どもたちが学んでいました。(大正十四年五月現在)

 ここの子どもたちは、昼はおそらく印刷工場や店員や子守などとして働いていたことでしょが、毎夜、‪二時‬間の授業をうけていたということです。

 この学校の記録・消息などについては残されていないため、その実態を知ることはできませんが、近くの夜学校の記録によると、子どもたちの中に「死亡除籍」が目立ち、その過酷な生活をしのぶことができるといいます。

 
 ◆参考文献
   ・「太陽のない街」  徳永直著  昭和四年発表
   ・「野の草 ーある印刷工女の歩みー」石倉千代子著 日本婦人会議刊
   ・「久堅町市館を中心とする環境調査」東京市社会局保護課 昭和六年

-中村 光夫-

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