ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「ニューヨークの魂」

2008-10-15 15:52:30 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「ニューヨークの魂」という本を読んだ。
著者は鬼島紘一という人。
奥付きには何も記載がないので経歴は不明。おそらく若い人であろう。
この本は先に読んだ小説と比べると滅法説得力がある。
題名が「ニューヨークの魂」となっているのでも分かるように、ニューヨークのことがふんだんに出てくるが、それも2001年の9月11日のWTCビルの事件に絡んでニューヨークが描かれている。
臨場感あふれるタッチでそれが描かれている。
ドキュメンター・タッチで9・11事件を解き明かす、という風に大上段に構えたものではなく、ある意味で小説なのかドキュメンタリーなのかわからないくらいその境界線が曖昧になっている。
私があの事件についてさまざまメデイアから受けた印象からすると、今少しリアリテイ―に欠けるのではないかという感じはするが、それでもフィクションとしてこれだけ描ければ大したものだと思う。
もし仮に、この9・11事件を掘り下げて、「何故ああいう事件が起きたか?」と、深部を探るとするならば、どうしてもテロリストの内側を探らねばならないであろうが、これは被害者の側を描き出すことによってニューヨークに住む人々の魂を描こうとしている。
ここで、書いた本人は気が付いておらず、ほとんど意識もしていないであろうが、国家というものが如何に国民のために機能するかしないか、ということが言わず語らぬうちに描かれている。
著者の気持ちとしては、そういう意図を前面に打ち出す気は無かったかもしれないが、それが文中にジワリと浮き出ている。
というのは、あのWTCのビルには日本の企業、いわゆる日本のレストランもかなりの数出店していた。
ところが日本政府はそういうものに対するフォローが全くなされていないわけで、企業ばかりではなく、在留邦人、あるいは旅行者にたいしても、こういう突発事件に対して全くフォローしようとする気がないということである。
それに反し、ニューヨーク市は綿密に被害調査をして、罹災証明を発行したわけで、ここに市民、あるいは国民に対する行政のサ―ビスに対する感覚のずれが存在する。
あの事件では正確な数字は知らないが、おそらく30数名の邦人が犠牲になっているが、その犠牲者になり替わってテロリストに何らかのアクションを取る、対抗措置を取るという気が、最初から我々の側、つまり日本人には存在していない。
この地、あるいはこの周辺で店を出していた人たちの被災状況をニューヨーク市は親切にフォローしたことが、その店の従業員の言葉として描かれているが、日本政府はそういうフォローを一切していないわけで、ここに日本の官僚の了見の狭さが如実に表れている。
日本の官僚は、本来、日本国民に対してサービスを提供すべき立場であるにもかかわらず、サービスの指向する方向が、自分と同じ官僚に向いているわけで、いわゆる官官接待になっているのである。
そういう意味で、日本の官僚というのは、国民を置き去りしたうえで、官官の間では極めて緊密に、そして強固な組織としてピラミットが形成されているのである。
そういう光景が登場人物の会話を通じて実に控え目に出ている。
ある種の批判であろうが、正面から口角泡を飛ばして相手に悪口を浴びせるのではなく、嫌味タラタラじわりじわりと皮肉交じりの意地悪をするような記述の仕方に大いに感心する。
この本は、表題のほかにもう一遍、「アフガンの義足士」という作品が掲載されていたが、こちらはテロリストの温床といわれているアフガニスタンの模様が、絨毯の取引を通じて縷々述べられている。
二つの作品で9・11事件の内側と外側を語るというような感じである。
しかし、テロの温床といわれるアフガニスタンというところは一体どういうところなのであろう。
アフガニスタンの貧困だけを取り出して、この国を支援すればテロがなくなるという単純な問題ではないと思う。
貧乏な国というのはなにもアフガニスタンだけではなく、アフリカの諸国などはアフガニスタンと大して変わらないのが現状だと思う。
どうしてこの地球上にはこういう格差が出来上がったのであろう。
私の乏しい知識からすれば、こういう格差は宗教のなせる技だと思う。
「アフガンの義足士」という作品を読んでみると、この中に描かれているタリバンというはまさしくスターリンや毛沢東、はたまたカンボジアのポルポトと全く軌を一にしているわけで、人を人とも思っていないよいうに描かれている。
「アフガンの義足士」に描かれている義足士というのは、地雷で足をなくした人の義足を作るという意味であって、民族紛争であるにもかかわらず、地雷をそこらじゅうに敷設するということは、到底我々には想定し得ないことだ。
イスラム原理主義というのが、如何に人々を苦しめているか、ということをタリバンは分ろうとせずに、ただただ自分たちの勢力拡大のみに関心があり、その為の殺人は聖戦となるのだから真に困ったことだ。
こういう考え方を持つ宗教集団を我々はどういう風に取り扱えばいいのであろう。
戦後の日本人で多少とも文化人あるいは知識人と呼ばれる範疇の人々は、「話し合えばいい」と言う。
貧富の格差を是正すればいいという。アメリカが手を引けばいいという。現行政府が政権を移譲すればいいという。
はたしてこういう文化人や知識人の言うことが正しい真実であろうか。
私に言わしめれば、こういう類の人々の言うことはすべからく綺麗事の羅列で、それを真に受けたらより以上の混乱を招くと思う。
世界の知識人が寄り集まって知恵を集めて議論しなければならないことは、こういうテロリストはアフガンの山の中を裸足で駆けまわっていたような人間ではなく、れっきとした良家の子女で、教育もきちんと受け、本来ならば私の軽蔑する知識人の側に身を置くべき人たちであったのである。
この構図は、オウム真理教の麻原彰晃を取り巻いた大学出のインテリ―たちの構図と全く同じで、本来、優秀であるべき若者が、何故に宗教の原理主義に走ったかということを解き明かさねばならない。
これこそ世界の知識人の緊急にすべき仕事だと思う。
基本的には20世紀後半の宗教の堕落だろうと思う。
人間という生き物は「考える葦」であるが故に、その心は極めて気癪で、繊細で、もろく、打ちひしがれやすく、その度に宗教に寄りかかって生きてきた。
宗教は、そういう人間の弱い心の支柱であったが、20世紀後半ともなると、この支柱が支柱たりえなくなって、心の拠り所としての価値を喪失してしまった。
これはあらゆる宗教に共通したことで、キリスト教も、日本の仏教も、おそらくイスラム圏においても同じであったに違いない。
無理もない話で、物質文明がこれほど発達すれば、千年も二千年も前の教義が現代に通用する筈もなく、宗教の戒律を真摯に受け入れている真面目な人から見れば、宗教の堕落以外の何物でもない。
考えても見よ、イスラム教徒が一日に何回もお祈りして時間を無駄つかいしている間に、トヨタの車は何台出来上がるのだ。
タリバンが夜間に移動するとき、何で移動するかといえば、やはりトヨタの車を使っているではないか。
イスラム原理主義者が宗教的回帰を願うならば、鉄砲もトヨタの車も使わずに、ロバと剣でテロをしてみよと言いたい。
宗教的回帰といいながら、自爆テロをするときは爆薬も、車も、鉄砲も、皆文明の利器を使っているではないか。
今の地球上に存する格差というのはどうして出来上がり、どうすれば解消できるのであろう。
今のアフガニスタンには数種の民族が入り混じっているらしく、それらの民族紛争が根底にあるようだが、民族が違ってもお互いにそう大した生活の違いはないはずで、お互いに仲良く暮らせばよさそうに思うが、それがそうならないところが複雑怪奇だ。
戦後の我々は、人と諍うことを極端に忌み嫌って、何事も話し合いでことを解決することを旨としているが、人というものは基本的に争う存在ではなかろうか。
戦後の我々の民主教育では、個の尊重が強調され、権力や権威に媚びたり、自己主張を控えたりすることが封建的という言葉で封殺されたが、それは個と個のぶつかり合い、我と我の衝突を奨励することでもあり、言い方を変えれば、諍の奨励、抗争の助長、闘争の督促ということである。
ところが、それをモロに、むき出しの形でするのではなく、「法律という枠の中でそれを行え」と、物わかりのいい知識人は逃げるが、そういう理性のあるものならば、最初から諍いそのものをもっと上手く回避するであろう。
法律の枠の中でのこういう行動ならば確かに血を見ることはない。
しかし、これはきちんとした法体制が確立した場所でならばそういうことも可能であるが、国際間の間にはこういう法体制というものが確立されていないわけで、突き詰めれば、強もの勝ちという自然界の不文律がそのまま法律ということになってしまう。
確かに、今でも国際法というのは存在して、一見機能しているかに見えるが、何の拘束力もないのだから遵守するもしないも、当事者のモラルを期待するほかない。
遵守しなかったからと言って、誰もそれに科料を科すことができない。
アフガニスタンの貧困は目に余るものがあるが、だからといって外からいくら支援したところで、アフガニスタンが今の先進国のレベルにまで上がってくることはきっとないと思う。
地球上の先進諸国が今日あるのは、やはりそれらの国の人々の努力の結果であって、アフガンが貧困なのも、やはりそこに住んでいた人たちの努力の軽重の結果だと思う。
アメリカが豊かなのはアメリカ人の努力の結果であって、日本が今日繁栄しているのも、やはりわれわれの努力の結果であって、アフガニスタンが今日貧困に悩んでいるのも、その地に住む人々の努力が足りなかったことだと思う。
今、豊かな国になっているとしても、昔から豊であったわけではなく、歴史という試練を潜り抜ける過程においては、汚いことも、危ない橋も、先行きの不安に駆られたことも、不義理なことも、残虐なことも、理不尽なことも、したりされたりして今日に至っているわけで、決して公明正大な綺麗な道ばかりを歩んで来たわけではなかったはずだ。
ただ言えることは、こういう国の舵取りにおいて、あらゆる局面や試練に際して、宗教にすがるということは、古い過去はともかく、近代においては如何なる先進国もしなかったに違いない。
アメリカや日本、その他ヨーロッパの先進国においては、人々が早い時期に宗教を捨て去り、宗教の戒律から解き放たれたから、富の蓄積が出来たのであって、タリバンのように宗教への回帰現象のようなことを続けていれば、今日の発展はありえない。
しかし、こういう国の人々も宗教を捨てたわけではない。
比重の置き方に知恵を絞っただけで、宗教そのものを否定したわけではない。
アメリカもキリスト教そのものを否定したわけではなく、日本も仏教を否定したわけではない。
100年も200年も前の宗教の教えに束縛されることなく、新しい科学の力に信頼を寄せただけで、物質文明を受け入れて楽できるところは大いに楽をして、無駄な労力を回避し、合理化し、その楽できた分のエネルギーを他に回すことを考えついたわけである。
タリバンもアルカイダも自分の都合によって、都合のいい文明の利器はちゃかり使うわけだが、ただ人々の志向が自分たちの思いと違う方向に進みかけ、自分たちにとって都合が悪い先行きになると、自分たちの都合にあった論理を展開して、それを他者に押し付けるのである。
他人に対して、自分の都合を押し付けることなので、当然、そこでは相手との軋轢が生じ、こうなると後は力が事の成り行きを支配するということになる。
アフガニスタンの中で、様々な民族がそれぞれ民族抗争をしている限りにおいては、それはコップの中の嵐で済んでいた。
ところが、それがアフガン以外の地で行われるようになれば、当然、どこの国でも自衛措置を取るわけで、ニューヨークのWTCビルが破壊されて、アメリカ大統領が「これは戦争だ!!」というのも無理ない話だと思う。
日本の識者の中にはアメリカのアフガン攻撃を非難する論調もあったが、それは対岸の火事を眺めて喜んでいる第3者の無責任な発言にすぎない。
あの9・11の状況を見て、アメリカに「アフガンへの攻撃を自重せよ」というのは、あまりにも無責任すぎると思う。
「アメリカの富がアラブ諸国のテロを引き起こす原因だ」という論調も、あまりにも「風が吹けば桶屋が儲かる」式の無責任極まりない論調だと思う。
アメリカの富はアメリカ人が築いたものであり、日本の富は日本人が切磋琢磨して築いたものであり、クエートの富はクエート人が地下の恵みから得たものであり、アフガンの貧困はその地に住む人々の歴史の結果であって、アメリカの所為ではない。
ムスリムの人々が「アメリカの富がけしからん」というのは、筋の通らない話で、それは妬み以外の何物でもない。
「人は生まれながらにして平等だ」とはよく言われるフレーズであるが、これはあまりにも無知で偏向した思考であり、生きた人間の世界は決してそんな甘いものではない。
この世に生まれ出た人間は、生まれ落ちた時、場所、家で、運命というものを背負ってこの世に出てくるのであって、そのもって生まれた運命は、生まれ落ちた瞬間に不平等にさらされ、格差の中に埋没し、決して平等などではない。
確かに、生まれ落ちた赤ん坊は一見平等に見えるが、その赤ん坊の生まれた環境が彼の人生を左右する。
アフガンの子供が道で物乞いをしなければ生きていけれないのと対照に、先進国の赤ん坊は、暖かい保育器の中でのうのうと命をはぐくまれるのである。
しかし、この格差も、それぞれの民族の永年にわたる努力の積み重ねの結果であって、他者の所為ではない筈である。
人間の潜在的な能力は、いくら民族が違い、生まれた場所が違っても、そう大して変わるものではない。
その意味では、この世に生まれ出た人間は、確かに、皆、平等だと思うが、それは個の潜在能力であって、この潜在能力は置かれた環境によって大きく左右される。
現に、9・11事件のテロリストなども、ほんのわずかな時間に、巨大な旅客機を操ることをマスターしたわけで、アラブの人だから白人と同じことが出来ないということはないわけで、今までにそうならなかったのは、彼らの物の考え方の相違が白人と同じではなかったからである。
この部分に宗教への確執が大きく左右しているわけで、潜在能力には差がないが、近代文明に対する思考を後ろ向きにとらえる宗教の教義が、こういう格差を生じせしめているのである。
宗教の教義が教育を阻害し、新しいことを知る喜びを否定したことが最大の原因だと思う。
そのことが、もともと平等に持ち合わせている個々の人間の潜在能力の芽をつぶし、思考の近代化、民主化を阻害しているのである。
過去の人間の生き様を敷衍してみると、如何なる民族、如何なる国家でも、守旧派と革新派の対立というのは人類の歴史そのものであって、すべてのものがこういう確執を克服して今日がある。
アフガニスタンでもその例にもれず、タリバンとかアルカイダというのは明らかに守旧派であって、祖国の近代化をしようという勢力に対して抵抗をしている。
何でも新しければいいというわけではないが、古き良き時代を再現するに、人を殺してまでその整合性を強調するという発想は、完全に時代遅れであり、今日では受け入れ難い思考である。
しかし、こういう人々に対して、その非合理性、不合理性を説く術を我々は持っていない。
いくら口先でそれを説いても、相手が聞く耳をもたない以上、何とも進展がない。
日本の進歩的知識人というのは、こういう場面で、その説得を政府の責任として、自らは蚊帳の外に出て外野席から政府批判を煽るだけだから、信頼されないのである。
今日のアメリカをはじめとする先進国は、2度の大戦を経ることによって、戦争の無意味さを肝に銘じて悟ったので、自己主張を戦争という手段で押し通すことを戒める知恵を得た。
これこそ人間が歴史から学んだ大きな成果だと思うが、そうはいうものの、部分的には今でも小競り合いは根絶できていないわけで、その一つの表れがテロという形で露呈しており、これは価値観の共有が不均衡だからこういう事象が起きるものと考える。
この価値観の不均衡の根底に横たわっているのが、教育への認識の相違だと思う。
この教育の不均衡の根底には、宗教の教義が大きな影響を占めているわけで、タリバンの唱える女性への戒律の押しつけには、それが如実に表れている。
ムスリムの人たちが女性の能力を過小評価することは実に不可解なことで、人間の半分は女性であるにも関わらず、その女性たちの潜在能力、隠れた能力を全く顧みないというのは実に馬鹿げたことだと思う。
この価値観の不均衡の溝を埋めるものとして、本来ならば、先進国の知識人の啓蒙活動、あるいは啓発活動というものがなければならない筈であるが、聞く耳をもたない連中に苦慮する政府への批判はあっても、そういう連中に説き聞かせる努力を怠っている知識人への批判は一向に上がってこないのは一体どういうことなのであろう。
知識人の中には当然メデイアの人間も入っているが、メデイアはタリバン、あるいはアルカイダに対して、反テロ活動に関するキャンペーンを打ちあげたという話は聞いたことがない。
メデイアがムスリムに対して反イスラムキャンペーンをしたという例は聞いたことがない。
メデイアの常とう手段は、宗教の自由を高らかに叫ぶことはあっても、ムスリムの前近代的思考、反民主的思考を正面から攻撃した例はないに等しい。
信教の自由という綺麗事を旗印にして、テロを指向する宗教団体に対して、正面から論戦を挑んだメデイアというものが果たしてあるのだろうか。
富の偏在がテロの温床だという論理は、如何にも整合性があるかに見えるが、それはある種の思い込みにすぎない。
テロというのは今後とも根絶はできないものと考える。
その意味では新しい戦争の形態である。
戦争の形態がテロという新しいスタイルになった以上、それに対する対応も新しい思考で当たらねばならないが、ここで問題となってくることは公と私のバランスである。
テロを徹底的に抑え込もうとすれば、私権に制限が加わるようになり、私権をあくまでも尊重するつもりならば、テロの抑圧が不徹底になる。
ここでメデイアが為政者に対して協調路線を張って、私権が多少犠牲になっても無意味な殺傷をするテロを抑えこむ方向に機能すればいいが、メデイアというのも人気商売で、人気が出ると思われる方向になびくのが常であるから困るのである。
メデイアが為政者と肩を組んでいてはメデイアとしてメンツが立たないわけで、どうしてもメデイアである以上、為政者に対して対峙する立場を保持しなければならない。