ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「バスの雑学読本」

2011-01-17 08:40:53 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「バスの雑学読本」という本を読んだ。
この世の中には鉄道フアンというのは世界的な規模で多いが、バスのファンも結構多いように思う。
しかし、自分が「バスのフアンだ」ということを人に公言するには、なんとなく後ろめたさを感じるのは私一人であろうか。
鉄道ファンならば何となく世間に受け入れられるが、バスのファンでは何となく肩身の狭い思いがする、という感じである。
鉄道フアンならば高額な資金を投じて、自宅に鉄道模型を作っても人は一目置いて感心してくれるが、バスのフアンではそういう事もないわけで、趣味としてのスケールそのものが鉄道フアンと比べると極めて規模が小さく、人々の関心が低いので、ある意味で肩身の狭い感がするのであろう。
鉄道の発達にも言えるが、人間の欲望の進化には際限がないようで、欲望が次の欲望を再生している感じである。
そこに持ってきて、我々の国は紛れもなく絶海の孤島なので、否が応でもガラパゴス現象に陥ってしまう。
大陸国家のように、地続きで異文化と接触することがないので、絶海の孤島の中で独自の進化になりやすいのもむべなるかなである。
鉄道にしろバスにしろ、日本で発想されたものではなく、海の向こうでイメージされていたモノが、日本に渡って来ると、日本独自の進化をなしたわけで、これを今日風の言い方をすれば、ガラパゴス化という事になる。
それは何も悪い事ではなく、世界に向かって大いに胸を張ってアピールしても良いことである。
我々は、自分たちの気質をモノマネ文化として、自らを蔑んだ言い方が流行った時期があったが、今の中国の現状をみるように、モノマネというと蔑まれた印象を受けやすい。
ところが、我々のモノマネは、進化の一過程であって、本物を乗り越えるまでの過渡的な現象であって、今では本物以上になっているいではないか。
それが中国のパクリの文化とは大きく違うところで、進化の過程で最初は真似から入っても、最後はそのオリジナルの本物以上の製品を作り出している。
ここが中国のパクリの精神と大きく異なっている面だ。
この本の中にも描かれているが、外国、特にアジア諸国では、日本の中古車の需要が極めて高いと言われてかなり久しい。
しかし、最近は韓国製や中国製がアジアの市場を席巻し始めているという記述は注視すべき事項だと思う。
ここにも我々日本民族の特質が垣間見れているわけで、我々は良いものを作ればそれは必ず価値を生む、と信じ切っているが、ビジネスの本質は、基本的に無から有を生みだすことだと思う。
良い物を作ることを優先せるよりも、安かろう悪かろうが、相手に買わせるテクニックだと思う。
日本は貿易立国を掲げ、これがある意味で日本の国家戦略の感がするが、我々は良い物を作ればそれは自然に売れると思い込んでいる。
ところが、良い物を作る事と、それを売りさばくことは全く別の才能だと思う。
世の中には良い物でなくともいいが、安く沢山欲しいという欲求もあるわけで、こういうビジネスの感覚というのは、我々はどうしても苦手な部分である。
言うまでもなく、我々の古い時代には、士農工商という身分制度があって、商人は何物にもまして身分的に蔑まれていたわけで、商いという行為は良い目で見られたことがない。
常に官吏の監督を受け、その元でしか経済活動が出来なかったわけで、それで戦後もしばらくの間、日本の銀行は護送船団方式という言い方で、大蔵省の監督下に置かれていたのである。
その後、規制緩和の風潮が高まると、あらゆる業界で極端な経営がはびこって、最終的にはバブル経済になり、それが沸騰すれば自然にバブル崩壊に繋がったのも無理からぬことである。
基本的に我々日本人は、適正な商売が不得手というよりも、自らの行動を自ら判断して、セルフコントロールの適正化が下手だというこであり、官吏が監督指導しなければまともな商い、商売、事業が成り立たないということである。
つまり、我々日本人というのは、お上の思し召しがないことには何事もし得ずに、倫理的なセルフコントロールが出来ないという事が明々白々となったわけだ。
物作りは一人で、あるいは少人数でこつこつと実績を積み重ねることが出来るが、商売というのは相手がいるわけで、相手を如何に説得し、ビジネスに繋げることが可能かを模索しなければならない。
そこでは相手との交渉術が大きく左右するわけで、我々はこの部分が極めて稚拙である。
異民族との商いは明らかに言葉による戦争だと思う。
我々は、外国にモノを売るという時、戦争という捉え方は決してしないが、そこが平和主義者の平和ボケの最たる部分である。
戦争は鉄砲を撃ち合うものだけではなく、日本で不要になった車を如何に相手に買わせるかも立派な戦争である。
それに立ち向かうには、我々の持つ全知全能で立ち向かわねばならないわけで、そこがそうなっていないから、中国製や韓国製の製品がアジアで市場を拡大しているのである。
地球規模で眺めて、日本語という言語も明らかにガラパゴス的な存在で、日本語圏というのは極めて狭い範囲しか通用しない。
そういう意味では非常に不利だが、その分我々の同胞の中には英語に堪能な人も大勢いるわけで、言葉によるハンデイキャンプはそう大したことはないと思うが、問題は我々の底流にある島国根性の方だと思う。
それは、我々がもの作りに長けているので、世界でも優秀な部類の人種だという思い上がりである。
確かに、良い物を作るが、それを売り込むことには必ずしも成功しているとは言い切れないではないか。
中国は最近、近代化に成功して、その経済成長は目覚ましいものがあるが、その成長の根底にある思考は、先進国の優れた製品をパクって、極めて優秀な模造品の大量流出であって、それは我々の国が半世紀前に歩んできた道と同じ軌跡である。
半世紀前はそういう経済成長の裏側で、アメリカと日本の間に多くの経済摩擦が生じていたわけで、我々はその個々の問題を一つ一つクリア―して、妥協と生産調整で乗り越えて来た。
この我々の行動の根本に潜む潜在意識は、相手に敬意を払い、相手の嫌がる行いは極力回避して、少々利が薄くなっても、相手に華を持たせるという謙譲の気持ちで今日まで来たのである。
しかし、今の中国にはそういう気遣いは微塵も存在しないわけで、底引き網で根こそぎ底魚を掻っ攫うという、我利我利亡者を地のまま演出しているということだ。
それは元々それぞれの民族に備わった特質であって、中国に日本と同じ謙譲の美徳を期待し、奥ゆかしさを期待する方が間違っている。
水に落ちた犬でも平気で叩くのが中国人なわけで、そういうことを最初から認識しておれば、腹を立てる必要もない。
しかし、自分と同じ意識で以て中国人を眺めると、その行動パターンが我々と同じではないと言って腹を立てることになる。
この本でいうところのバスの発達というのは、低開発国ではあくまでも過渡的な社会的インフラ整備であるべきで、理想をいえば公共交通機関は鉄道に委ねるべきだと思う。
ただ鉄道というのはどうしても先行投資が大きなネックになっているけれど、これから先の未来社会を考えると省資源、省エネルギーを目指すという方向性は避けて通れないと思う。
バスがいくらきめ細かく市民の足として普及しても、それが化石燃料に依存しているかぎり、未来志向とは逆行する形になると思う。
ここで日本の技術、省エネ技術、省資源技術という物が脚光を浴びることになるが、ここでも我々日本人のお人好し、世間知らず、良い子ぶりが顔を出すわけで、日本の優れた技術は、戦略的な価値があるのだという事に極めて無頓着である。
「日本の優れた技術が地球を救う」と言って煽てられるとすぐにそれを真に受けて、我も我もと技術移転をしだすが、ここで「開発費を回収するのだ」というコスト管理に甘い考えが出るのである。
日本の製造業は、中国が人件費が安いというわけで競って中国に工場を移したが、こういう動きも極めて浅薄な考え方だと思う。
これも日本人の大半の潜在意識を見事の露わしているわけで、バブル期に「投機をしない奴はバカだ」と侮った思考と全く同じパターンである。
バブルに踊って本業を疎かにして、マネーゲームに走った企業が、バブル崩壊で慌てふためくのは当然の帰結であって、中国の人件費が安いからと言って、皆中国に工場を移せば、そのうちにそのメリットが失われるのも当然の成り行きである。
こんな誰でも簡単に分かる理屈を無視して、「人がやるから俺もやる」、「あいつがやれば俺もやる」、「バスに乗り遅れるな」、という思考でおれば企業が傾くのは当然のことである。
省エネ、省資源の技術を完成させたならば、それは経済の上の戦略的に非常に有利なカードを握ったことであって、それを如何に有効に使うかは、完全にソフトウエアーの運用の問題になるわけで、ここが日本人の一番弱い思考パターンである。
新しく開発された技術を、如何に高価で相手側に売りつけるか、商売人の真価が問われるところである。
ここで日本の知識階層というのが良い子ぶって、その技術を安価で相手に提供することが、人類全体の貢献につながると尤もらしいことを述べたててくるが、そういう日本の知識人は、基本的にバカな人が多いから、そういうバカな知識人の尤もらしい忠告は無視することに限る。
バスと鉄道でどちらが自然環境にとって有益かといえば、恐らく鉄道の方に軍パイが上がるだろうと思う。
バスはその一つ一つがまぎれもなく公害を撒き散らしているわけで、その意味で鉄道の方が公害の点では有利だと考えるが、その設備投資の金の算段が難しくて、手っとり早く市民の期待に応えるには、設備投資のいらないバスの普及に向かわざるを得ない。
民主党政権になって高速道路の見直しが検討されたが、この高速道路はバス事業者にとっては非常に有利な環境整備になるわけで、その通行料金がバス会社の経営に大きく影響するのではなかろうか。
社会的なインフラ整備をすることに反対する人はあまりいないと思うが、高速道路や整備新幹線の見直しというのは、インフラ整備にブレーキを掛けるものであって、人気がないのは当然のことだと思う。
しかし、一台のバスに3、4人しか乗っていない路線を、何が何でも維持しなければならないものであろうか。
鉄道でも、空気を運んでいるに等しく、一人か二人老人が利用するだけでも、その路線を維持し続けなければならないものだろうか。
JRになる前の日本国有鉄道には、そういう社会的使命が確かにあったように感じれるが、その使命感は今でも生きているものなのであろうか。
もし、そういう交通弱者の救済ということを真剣に考えるならば、国家戦略としてもっともっと有効で効率的な策を真剣に考えるべきだと思う。
僻地の老人の利便に真剣に応えるとするならば、デマンド方式とか、乗用車並みの小さな車での送迎だとか、バスとか鉄道などという大袈裟な交通機関でなくとも、地元のタクシーを上手く利用する方法として、タクシー券の配布とか、経費を節約する良いアイデアは沢山出てくると思う。
しかし、空気を運ぶ鉄道も、狭い道を走る大きなバスも、見方を変えればある種の雇用対策でもあるわけで、儲からないからと言ってそういうものを全て廃止してしまっては失業者が増えることになる。
僻地で、最初から地元の老人しか利用するものがいないからと言って、素直に経済効果のみでインフラを考えていいかどうかは大きな疑問ではある。
我々の国も少子高齢化が進み、僻地に高齢者が置き去りにされる時代になれば、交通弱者の救済ということも、大きな社会的なテーマであるが、だからと言って従来の概念をそのまま踏襲する必要はないわけで、こういう状況でこそ人々のアイデアでそれを克服すべきだと思う。