ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「CIA秘密飛行便」

2011-01-08 09:47:37 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「CIA秘密飛行便」という本を読んだ。
著者はオランダ生まれのイギリス人ジャーナリストのステイーブン・グレイという人だが、サブタイトルには「テロ容疑者、移送工作の全貌」となっている。
要するに2001年のアメリカ・ニューヨークで起きた9・11事件のようなテロ組織の容疑者を、アメリカ国内では収監出来ないので、アメリカが第3国に移送して、その地で容疑者から様々な情報を引き出して、テロ集団を追いつめようという発想の元にCIAが暗躍しているという話である。
こういう話になると、どうしても為政者対メデイアという構図になりがちであって、こういう見方は人類が今まで経験して来た歴史の延長線上の発想だと思う。
アメリカの大統領が如何なる人であろうとも、あの9・11事件を突き付けられれば、「イスラム原理主義者はケシカラン」という思考に行き着いてしまうのは当然の成り行きだと思う。
9・11事件の標的となった世界貿易センタービルは、既に何年も前からイスラム原理主義者から狙われていたわけで、にもかかわらずあの事件が防げなかったという意味で、政府の責任を問うという発想も、至極当然な思考だと思う。
こういう場面でメデイアは「過去に何度もテロ攻撃があったにも関わらず防げなかった」と言って大騒ぎして政府を糾弾するし、その一方で事件の後では「容疑者を不当に扱っている」と、相も変わらず政府を糾弾するのである。
メデイアにとってみれば政府、あるいは行政機構がどういう振る舞いをしても、そういう政府機関のあらゆる振る舞いが批判の対象になるわけで、まさしくインテリ―・ヤクザそのものである。
アメリカの行政のトップ、大統領というのは独裁者ではなく、選挙で選ばれた国民の代表でもあるわけで、そういう立場でアメリカ国民の国益の擁護をしなければない立場でもある。
世界貿易センタービルをテロ攻撃されて、「アメリカ人は世界で嫌われているから仕方がない」では済まされないわけで、何としてもイスラム原理主義者にテロの犠牲者の仇をとらなければ自分を支持してくれたアメリカ国民に顔向けが出来ないことになる。
そう考えると、昨年の尖閣諸島で起きた中国漁船の海上保安庁の巡視船への体当たり事件も、そういうスタンスで考えるべき事例であった事は言うまでもない。
9・11事件というテロ攻撃を受けたアメリカとしては、イスラム原理主義に対する報復について余所の国の意向など全く関係がないわけで、「自分がやられたのだから自分で仕返しをする」という極めて単純な発想である。
しかるに、こういう場合でもメデイアは極めて無責任な立場に身を置いて、隙あらば為政者の揚げ足取りに徹しようと待ち構えており、それはある意味でオオカミ少年の宿命でもある。
彼らの食い扶持は、そのことによってしか得られないわけで、考えてみれば健気で純真な国民に寄生する害虫のような存在でしかない。
そういう害虫でも、いないことには植物界において受粉という事が成り立たないので、地球上の生物にとっては必要悪のような意味で存在価値がある。
問題は、メデイアというものは、取材できる環境でしか取材出来ないということで、ベトナム戦争を例にとれば、記者が自由に動き回れるアメリカ軍の側、南ベトナムの側からしか取材できなかった。
そういう環境の中から、つまり自分は安全圏に身を置いていながら、「アメリカ軍はこんなに悪いことをしている、こんなひどいことをしている」という報道が世界を掛け回ったわけで、北ベトナム側のニュースはさっぱり取材できないので、あちら側はさも極楽浄土のように見え、人々は全て民主的に公平な秩序の中で打倒アメリカと一致団結しているかのような報道がなされていた。
ベトナム戦争ではアメリカは敗北したと言われているが、こういう世論の構築の仕方も極めて意図的なメデイアの傲慢さだと思う。
北ベトナムとアメリカは互角の戦いをしたわけではなく、世界のメデイアが声をそろえてアメリカの非を暴きたてたから、アメリカは嫌気が射して闘うことを放棄しただけのことで、ただ撤退しただけのことだ。
しかし、世界的な規模でこのことを「アメリカの敗北」と流布したのは、メデイアの責任だと思う。
その結果としてベトナム難民が世界に流出したが、その扱いについてもメデイアは各国の政治に責任を転嫁するのみで、メデイア自身は難民救済のイニシチャブをとった形跡は見当たらない。
ベトナム戦争の失敗は、アメリカ軍が戦場にメデイアを入れたことである。
ただ自由主義体制の国としては、納税者に対する説明責任は免れないので、ミニマムの広報活動は必要であろうから、情報の発信源を出来るだけ絞り込んでおく必要があると思う。
その後の湾岸戦争、イラク戦争、アフガンの戦いでは、こういう措置が取られたように思う。
しかし、第2次世界大戦後の戦争では、米ソの冷戦とは言いつつも、ベトナム戦争を見ても、その他の戦争を見ても、国家総力戦のイメージからかけ離れた非対象型の戦いで、太平洋戦争の時のように大日本帝国とアメリカ合衆国ががっぷりと4つに組んだ横綱相撲という戦争ではなく、巨人と小人の戦争という非対象の戦いだと思う。
その意味で、テロとの戦いも完全に非対象の戦争で、これは厳密な意味では戦争ではないと思う。
この本の主題は、テロの容疑者を捕まえても、アメリカ国内では拷問による自白に法的な効力が認められていないので意味を成さない、よって容疑者を余所の国に移して、つまり人権擁護の意識が薄い国で拷問によって自白させ、そのことのよってテロ組織の情報を聞き出すということである。
そういうことをCIAが主体的にやっており、その為にCIAは独自の飛行機を所有し、容疑者を世界の刑務所に運び込んでいるという事に対する告発である。
端的に要約すると、自白の強要、つまり拷問のアウトソウシングというわけだ。
アメリカ国内では容疑者に拷問を加えて自白させれないので、それを余所の国に委託するということだ。
アメリカ国内では拷問が禁止され、拷問による自白は証拠能力がないという事は、極めて民主的なシステムに見えるが、日本国憲法の第9条のように、あまりにも理想主義的すぎて、社会秩序の維持には逆に不合理な面があるのではなかろうか。
拷問など言うことは決して良いものではなく、勧められるものではないが、悪事を働くような者が、普通に話し合って自分のしたことを普通にすらすら申し立てるであろうか。
日本でも警察の取り締まりが行きすぎて事件になることがしばしばあるが、普通の市井の市民ならば、自分のしたことをすらすれ語るであろうが、脛に傷もと者が取り調べに際して、そう何でかんでもすらすら申し立てるとは考えられない。
私はテロリストの肩を持つ気はなく、そういう連中を血眼になって探している当局側の人間に声援を送りたい方あるが、メデイアの論調はともするとテロリストを庇う傾向に行きすぎる傾向があり、一生懸命テロ集団を追いつめようと努力している官憲の側を安易に糾弾しがちだと思えてならない。
このアメリカ合衆国のテロとの戦いも、完全に非対象の戦いなわけで、これは戦い方として極めて困難な戦いである。
ジュネーブ条約の戦争規定は、当事者同士が正規の軍隊であって始めて機能するわけで、片一方が私服であったり、ただの烏合の衆であった場合には、それが適用されないので捕虜規定も意味をなさない。
だからと言って、容疑者に拷問を加えていいかという論議は、道義的に良いわけ無いことは言うまでもない。
だからこそCIAはテロの容疑者を余所の国に移送して、そこで自白から情報を得るという行為をし続けているわけで、これは明らかにアメリカ人の人権意識という倫理に反した行為ではある。
けれどもそれをしなければテロ組織の究明にはつながらない、という倫理と人権の狭間、要するにジレンマに立たされてという事である。
これが旧ソビエット連邦や中華人民共和国のやり方ならば、そんな回りくどい手法を取らず、安易に拷問死に至らしめて、当人は行方不明ということで処されてしまうに違ない。
CIAがテロ容疑者を専用飛行機であっちにやったりこっちにやったりして、手間暇かけて情報を取ろうとする事は極めて人道的な扱いであって、それはアメリカだから出来ることであって、旧共産主義国ならばそういう手間暇かける前にあっさり始末した方が手っとり早い。
「あいつがテロの関係者ではなかろうか?」という疑念が生じた時点で、その場でそのまま暗殺してしまえば、テロリストの絶対数はあきらかに少なくなるわけで、その後の厄介な事後処理をしなくても済む。
しかし、テロリストの存在というのはまことに困ったもので、日本のメデイアも世界のメデイアも、こう言うテロリストに無駄な殺生をやめるべく諭すことが何故出来なのであろうか。
宗教家は一体何をしているのであろう。
世界の賢者はどうしてテロリストに無意味な殺生をやめるように説得できないのであろう。
こういうテロリストの言い分のよると、諸悪の根源は全てアメリカの存在にあるように言っているが、世界の知識人も日本の知識人も、「そういう考えは根本的に間違っているよ」と、何故、テロリストに説得しきれないのだろう。
日本にも世界にも大学というのは掃いて捨てるほどあって、そこでは日夜高等教育が教えられ、学識経験が磨かれ、真理の探究が行われ、理想や理念が声高に叫ばれていると思うが、そういう教育を受けた人たちが、どうしてテロリストや、あるいはテロに対抗する側の人々に対して、争い事を諌める運動を起こさないのであろう。
イスラム原理主義者が若い純粋な若者をリクルートして、「死ねば聖人になれる」などと自爆テロに誘い込む事を何故容認しているのであろう。
この構図を我々の社会に置き換えて考えてみると、暴力団組織が鉄砲玉と称する無鉄砲な若者に言いくるめて、たった一人で抗争相手の組に殴り込みを掛ける図と同じで、親分は何もせずに後ろに隠れて、何も知らない初心なチンピラに花を持たせて直接行動に出すようなものである。
それを宗教という美名に隠れて行っているわけで、世の識者やメデイアは、アメリカ大統領やCIAを糾弾するのではなく、そういうイスラム原理主義者をもっともっと叩き、糾弾しなければならない筈だ。
識者もメデイアも、そういう認識は当然持っていると思うが、いざそれをしようとすると、自分がテロの標的になってしまうので、そこまで思い切った行動には出られないのではないかと善意に解釈している。
自爆テロで、当人が死ぬのは本人の勝手であろうが、巻き添えで殺される方はたまったものではない。
イスラム原理主義者のテロは、最初からその目標が無辜の大衆になっているわけで、無辜の大衆が際限なく死ぬのはアメリカの所為だという論法であるが、そんなことは普通の常識のあるものは信じていないが、テロをする側の論理としてはこれを押し通すのである。
ここで普通の教養人の嵌りやすい錯誤が、世の中の全ての現象を善悪、良し悪い、正義不正義という価値観で見てしまうということである。
この世には、そういう価値観は存在していないにもかかわらず、我々はどうしてもそういう価値観から脱却できずに、自然の法則を人間の倫理で以て計ろうとする。
生きた人間の認識している善悪、良し悪い、正義不正義という価値観は、モラルに対して存立しうる概念であって、人間の生存そのものには当てはまらないものだと思う。
人間の生存という面からすれば、生きるか死ぬかの関係が何ものにも増して重要なわけで、「アメリカが諸悪の根源だから我々はテロで対抗するのだ」という論理も、テロリストとしてそれなりの整合性を得ているという事になる。
この地球が今でもマゼランやコロンブスの時代ならば、地球上のそれぞれの地域に住んでいた人々も、他の地域のことを知らずに生きていたに違いない。
それぞれに自分の小宇宙で満足していたかもしれないが、21世紀の地球は、それこそグローバル化してしまって、アフガンの山奥の人も、エジプトのナイル川上流の人も、イラン・イラクの砂漠の人も、西洋先進国、キリスト教文化圏の進化した文明を見て、聞いて、触ってしまうと、「あいつはら豊かな生活をしているのに、何故、俺達は貧乏なんだ」という疑問にぶち当たるのも当然の成り行きである。
そこで出てくる答えが、「アメリカが俺達を搾取している」という論法になるが、本当はそうではなく、遅れた地域の人々は基本的には怠け者で、額に汗して働くことを忌み嫌ったから、こういう結果を招致してしまったのである。
考えても見よ。地球上に住む人間は元は一つだったと思う。
古代文明はエジプト、メソポタミア、インダス、揚子江流域と4か所に限定されているかのように言われているが、その前のもっと先の人間の起源は一つだったと思う。
つまり、地球上に住む人類のスタートラインは、どの民族も皆同じであったという事が言える。
しかるに今日、アフガニスタンの奥地に住む人と、東京、あるいはニューヨーク、ロンドン、パリに住んでいる人では、その生活様式はまるっきり違っているわけで、この違いは一体何なのであろう。
一言でいえば、先進国の人々は今までの過去に充分な努力をして、富を築き上げて来たが、今の発展途上国の人々は、これまでの過去にそういう努力を怠ってきたということである。
その努力の中身には、当然、戦争という人と人の殺し合いが含まれていることは言うまでもなく、ただ言葉としての綺麗ごとのみではなかったことは言うまでもない。
日本でも世界でも、賢者と言われるような人たちは、こういうはっきりとしたもの言いをしないので、先進国と後進国は同じ立ち位置にいるように錯覚しているが、それぞれの国の立ち位置は、それぞれの国の過去の努力の上に乗っかっているわけで、それが歴史の重みと称せられるものである。
日本でも世界でも、大学に学んだ人が多くなると、口先の綺麗ごとでものごとの真理を覆い隠してしまって、表層的な耳触りのいい言辞に惑わされるケースが多くなり、その歴史の重みというような概念的なものに価値を示さなくなってしまった。
ただただ、皆が仲良く、赤信号皆で渡れば怖くないという心理に近づいて、綺麗ごとのみを並べ立てる傾向が強くなったが、これは裏を返せば極めて無責任な態度になったということでもある。
きついことを言って嫌われるよりも、当たり障りのない事を言って、自分にトバッチリが掛からないように身を処すわけで、一言でいえば無責任という事である。
アメリカは、アメリカの国益を維持するために、テロリストを何処までも追い詰める気でおり、その為に容疑者を拷問の出来る余所の国に移送してまで、それを推し進めるという事は、完全に国家プロジェクトの体を成しており、おためごかしの口先の綺麗ごとではない。
アメリカは、アメリカ国民を如何に守るかという、生きるか死ぬかの大試練に直面しているわけで、これこそが国を発展させる真の努力そのものである。
アフガンやイラン、イラクの指導者に、こういう覚悟を持った為政者がいるかどうかであって、この違いが低開発国と先進国の立ち位置の違いになっているのである。
こういう覚悟の積み重ねが、歴史を経た努力の賜物であって、イスラム教文化圏の国々の人々は、こういう努力を過去に積み上げて来たかどうかということである。
イスラム原理主義者が、諸悪の根源をアメリカの存在に蔽い被せようとする意図は、自分たちの怠惰な生活習慣を誤魔化す為の詭弁に過ぎず、何の整合性もありえない。
人類の時の経過は如何なる民族にも公平に行き渡っているわけで、古代の4大文明の地にも、アマゾンの奥地にも、ネイティブなアメリカ先住民にも、ヨーロッパのキリスト教徒にも、日本の農民にも、それこそわけ隔てなく公平に天から賦与されている。
イスラム原理主義者だけがアメリカの存在が諸悪の根源などといえるわけがない。
言えるのは、各民族の歴史の中における勤勉努力の実績か結果であって、その勤勉努力をコントロールしてきたのが宗教の戒律であった。
宗教の戒律が額に汗して働くことを奨励したところは努力が実ったけれど、労働を遺棄した場合は、長い歴史の中で進歩が阻害されて、今では大きな格差が生じてしまったということである。
人類の過去の軌跡は農業に左右され続けたが、21世紀以降は、その農業に替わる価値創造の機構がコンピューターになるわけで、今現在はその過渡期に当たるが、コンピューターの使用がグローバル化すると従来の社会とはまた別な社会の出現になるような気がしてならない。
今でもテロリストが極普通にコンピューターにアクセスしているわけで、こうなると敵味方の峻別が出来なくなってしまって、一般市民とテロリストの見分けがつかなくなってしまう。
そういう環境の中で、普通の市民、一般市民、何の罪もない市民、全く無辜の人々までも殺傷して構わないという思考は、あってはならない発想であるが、ハイテクを酷使するテロリストにはこれを自制するセルフコントロールが効かないわけで、この事象を我々はどう考えるべきなのであろう。
ここで本来ならば高等教育を受けた賢者とわれる学識経験者やメデイアが、こういうテロリストを改悛させるべき有効な手段、手法を考え出すべきだと思う。
ハイテクを自由に操るテロリストを改悛出来ない知識人の存在というのもまことに困ったことで、これでは宇宙規模で考えて高等教育の効果というのは何の意味も持たないという事ではないか。
テロリストが自分の受けた高等教育を武器にハイテクを酷使して、無辜の人々をテロで殺傷する現実を我々はどう認識したらいいんであろう。
この本の主題は、アメリカのCIAがテロの容疑者を海外の刑務所に移送して、彼の地で、先方の主権の元拷問によって自白させ、それを情報としてフィードバックさせている事に対する告発であるが、アメリカ合衆国の為政者として、自国内で拷問による自白を強要出来ないとなれば、それは次善の策というより他ないと思う。
だからどうしたということに尽きると思う。
テロは当然のこととして、こういう安全管理、危機管理において、事前に事故を防ぐという事は並大抵のことではなく、事故が起きた後では「何故防げなかった」と大問題になるが、事前に防いだ時は犠牲者はまだ誰もいないわけで、被害がない以上大したことではなかったと過小評価されがちである。
いくら大惨事が予想されようとも、犠牲者が一人もいない段階では、当たり前のことと処理されて、起きたであろう大惨事を予防した功績というのは、無いに等しいことになってしまう。