ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「ウサーマ・ビン・ラーデイン」

2008-11-30 21:26:52 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「ウサーマ・ビン・ラーデイン」という本を読んだ。
言うまでもなく、アルカイーダの首領ということになっているが、果たして本当にそうかどうかは誰も知らないわけで、どういう経緯があるのか定かには解らないが、自分の所属する団体の名前も公表できず、居場所も隠さねばならず、自らの身も世間に隠さねばならない存在というのも実に身下げた在り方だと思う。
我々の知る範囲では、2001年の9月11日のアメリカ同時多発テロの首謀者という認識であるが、本当にそうかどうかは未だにわかっていないわけで、世間に背を向けて聖戦の遂行というのも馬鹿げた話だ。
アメリカの繁栄の象徴でもあるニューヨークの世界貿易センタービルを2棟ともああいう形で攻撃されたとすれば、アメリカ大統領が誰であったとしても報復せずにはおれないに違いない。
我々は、直接の被害を受けたわけではないので、まさしく傍観者として綺麗事で口を拭っておれるが、当事者としたならば、そんな綺麗事で物わかりのいい事を言っているわけにもいかないものと推察する。
現実には、あの事件で日本人も30名近い犠牲者が出ていることを考えれば、あのテロに対してアメリカ人と同じレベルの憎悪をかきたててもおかしくはない筈いである。
ところが我々は戦後63年間というもの、去勢された家畜のようなもので、闘争心を全く失ってしまった生き物に成り下がってしまった。
メンツを汚されたアメリカは、結果としてウサーマ・ビン・ラーデインが潜伏しているであろうと思われるアフガニスタンに報復攻撃をしたが、彼は上手くそれを逃げたらしい。
この時、浅薄な私は思ったものだ。
彼が敬虔なイスラム教徒だとするならば、イスラム教徒は結束して彼の身柄を公の場に出すべきではないのかと。
今にして思うと、彼のテロは明らかに宗教戦争である。
この本の主題はそれを明らかにすることにあるようだ。
彼、ウサーマ・ビン・ラーデインの宗教観の何処に彼をテロに走らせる根拠があるのかを解き明かそうとしている。
彼自身の生い立ちは、貧困層などの出自ではなく、富裕階級の出身で、自らも高度な教育を受け、有能なビジネスマンでもあったわけで、その彼がどうして宗教を旗印にして、テロという行為に血道を開けるようになったのかということである。
昔、「アラビアのローレンス」という映画があった。
今でいう中近東を舞台としてイギリス軍の進駐を描いた作品で、アラビアの部族とイギリス軍の駆け引きが描かれていたが、ここで描かれているアラビアの民というのは、べドウイン族のイメージをいくらも出るものではない。
また、同じような映画で「風とライオン」という映画があって、これも同じようにアラビアを舞台に描かれていたが、ここでもアラビアの民はべドウイン族のイメージを払しょくするものではなく、両作品が同じような時代、20世紀の初頭から半ばの時代を描き出しているにもかかわらず、中近東の人々の意識は、昔のままのべドウイン族そのもののように描かれている。
おそらく今でもそれと同じことがあるのではないかと思う。
つまり、意識は太古のままにもかかわらず、社会生活のツールは今日の文明の利器を縦横無尽に使いきるということである。
「風とライオン」の映画では、ショーン・コネり―がべドウインの部族の長を演じているが、時代背景としては20世紀に初頭であろう、既にこの時からべドウイン達はアメリカというものを敵視している。
「アラビアのローレンス」ではイギリス軍の将校がべドウインの協力を得てドイツの支配地を混乱させるという筋書きだったように思うが、この映画ではべドウイン側の敵がい心は描かれていないが、イギリスという先進国に良いように使われたという形で描かれている。
砂漠の民、いわゆるべドウインと、西洋先進国ではあらゆるものが相容れないことは言うまでもない。
価値観の違いというのは相互理解などという綺麗事では処しきれない。
砂漠の民がラクダでキャラバンを組み、ゆったりゆったりと交易をするのを、キリスト教文化圏の人が見たら、まだるっこしくて見ておれなかったと思う。
そして最大の障壁が宗教なわけで、この宗教と領土拡張という帝国主義的キリスト教文化圏、あるは価値感と衝突が今日まで続いているというのがテロの根源ではないかと思う。
ビン・ラーデインがアメリカをテロの標的にするのは、アメリカがキリスト教徒の民であるからであって、そのもう一歩奥にはイスラエルとしてのユダヤ人の存在が彼の癪の種になっているようだ。
こんな理由は、我々からすれば考えられないことであるが、現実にはアメリカを標的とするテロが今までに何度も起きているわけで、それを標榜する声明文まで出ているからして、我々の想定外のことも十分にありうるということである。
ニューヨークのWTCビルに旅客機で突っ込むというアイデアも、我々には想定さえできないことなわけで、そういう意味でも、価値感が根底から異なっているということである。
アメリカがイラクを攻撃した湾岸戦争でも、彼らの対応は我々には想定できなことが多かった。
例えば、アメリカがピンポイントで攻撃するであろうと思われる場所に人質を集めるとか、病院を兵站基地にするとか、我々の常識を真っ向から否定するような措置を平気でとるわけで、こういう有様に対して日本の識者はどういうコメントが出せるのであろう。
日本をはじめとする世界の識者と称せられる人々は、何の臆面もなくアメリカの悪口を言いふらしておれるが、責められるべきは攻撃目標に罪もない人々を集めたり、病院を基地にしたりする側ではないのか。
ウサーマ・ビン・ラーデインがアメリカを憎む根拠には、湾岸戦争以降アメリカがサウジアラビアに進駐したことが大いに気に入らないわけで、そのことを彼はイスラムの地がキリスト教徒に占領された、と認識しているところにある。
そして、そのアメリカを後ろで操っているのが、イスラエルと同じ民族であるユダヤ人だから我慢ならない、という論法になるらしいが、これも荒唐無稽な論理で、昔のべドウインの野蛮な思考から一歩も出ていないということに尽きる。
アメリカの繁栄がユダヤ人の搾取で、サウジにアメリカ軍が進駐するとユダヤ人の陰謀で、諸悪の根源をすべてユダヤ人の所為にするなどということを誰が真に受けるかと言いたい。
この本の中でも、アメリカがサウジアラビアに進駐したことを彼が怒っていることは描かれているが、イラクのフセイン大統領がクエートに侵攻したことには一言も言及していないわけで、フセイン大統領がクエートに侵攻しなければ、湾岸戦争も起きず、アメリカ軍のサウジ進駐もないわけで、そのあたりを彼は如何に考えていたのであろう。
中近東の砂漠の民は、基本的にはべドウインだと思うが、こういう言い方をすると非常に誤解を招きやすい。ところが、べドウインというのはアメリカインデアンと同じだと思う。
人間としては、西洋人も、日本人も、アメリカインデアンも、べドウインも全く同じで、生まれ落ちた時は何ら差別も優劣もなく誕生するが、成長の過程で社会的な影響を受ける段になると、明らかに差異が生じ、それがその後の高等教育に接する頃になると歴然と違いが生まれてくると思う。
「人は生まれながら平等だ」などというが、それは完全に嘘っぱちだ。
砂漠で生まれてラクダの乳で生育した人間と、南アメリカの荒野で生まれヤクの乳で育った人間と、大都会で哺乳器の中でミルクで育った人間が同じであるわけがないではないか。
人間のものの考え方も、その育った環境に大きく左右されるのも当然の成り行きではないか。
ウサーマ・ビン・ラーデインがイスラム教の家庭に生まれ、イスラム教の社会の中で成人に達したならば、イスラム教の影響なしではありえないわけだが、そういう人は彼のほかにも大勢いるわけで、彼だけが特別に敬虔なイスラム原理主義にまで上り詰めたということは、彼の考えの中に特別なものがあったというほかない。
彼の場合、裕福な家庭に育ち、本人もビジネスには長けていたわけで、決してアメリカを敵に回して得をする立場ではなかったはずである。
そう考えると、彼の運動を支えるエネルギーは、敬虔な宗教的原理主義しかないわけで、これは日本におけるオウム真理教の行動と極めてよく似ている、と考えればいいと思う。
ウサーマ・ビン・ラーデインが唱える教義も、麻原彰晃が唱える教義も、部外者にとっては全く意味をなさないもので、まさしく独りよがりな狂信者の域を出るものではない。
ところが世の知識人という人達は、この何の意味もないただの愚行に、何とか整合性のある説明をしようとするものだから、ますます迷路にはまり込んでしまうのである。
ゼロはどこまで行ってもゼロなのに、その中から何か実数を見つけ出そうと、愚にもつかない画策をして、試行錯誤を繰り返すから世の中が混沌とするわけで、ゼロはゼロ、バカはバカと、はっきりと正面切って言いきってしまえば、世の中はもっとすっきりする。
ただ惜しむらくは、この彼の行為が宗教の名において行われている限り、イスラム教徒の聖職者は、それなりの責任を感じて、彼に自重をするよう呼びかけることはしなければならないと思う。
何世紀も前のべドウインの潜在意識を持った人々が、それこそ何世紀も前の宗教上の怨念を抱えて、近代文明の恩恵をモロに享受しながら、地球をまたにあちこち飛び回って、テロを起こして罪もない人々を殺すなどということがあってはならないことだと思う。
そういう輩が宗教を口にすることさえ忌まわしいことなわけで、だとすれば世の宗教者は団結して、そういう思考を糾弾してしかるべきだと思う。
2008年11月28日の段階で、インドで暴動が起き、タイでも反政府勢力が空港を占拠して、罪もない人々を混乱の際に追い込んでいるが、如何なる理由があろうとも、暴動やテロに整合性があるわけないではないか。
かって我々は、文明人の対極に土人という呼称で野蛮人の存在を認識していたが、昨今ではそういう認識そのものが否定されて、存在そのものも、呼称も、遺棄されているが、こういう現状を見るにつけ、そういう呼称が再び復活するのではないかと危惧せざるを得ない。
前にも述べたように、人間は生い立ちによって均一に近代精神が醸成されるのではなく、生育した土地、地域、宗教、環境によって非常にばらつきのある人格形成がなされるわけで、この地球上の人間は同じ価値観を持ち合わせているわけではない。
価値観の全く違った人間同士が、お互いに妥協しながら、価値観のバランスを取りながら、生きているのである。
大昔のように、交通通信の手段が未熟で、情報の伝達が稚拙であった頃は、地域限定のトラブルが、今では瞬時にして地球上を覆い尽くすわけで、その中で古い価値観で以って唯我独尊的な思考は、時代の潮流に棹差すものであって、人類全体の幸福には程遠いものである。
今では人を野蛮人と言うことが許されないが、彼らのしていることは、野蛮人の行為そのものではないか。
その野蛮人がテロを行う際には、極めて文明人として振舞っているわけで、パスポートを偽造して世界をまたに飛び回り、爆弾には精巧な時限装置を組み込み、爆薬の入手には車を多用しているわけで、している行為は極めて野蛮であるにもかかわらず、その行為と手法は極めて現代的である。
そのことは、テロをする、罪もない人々を殺す、異教徒を殺すためには彼らの忌み嫌う現代の物質文明を最大限に利用しているわけで、この矛盾を彼らはどう説明するのであろう。
宗教に根ざした行為でありながら、異教徒ならば殺してもいい、という発想はどういうところから来るのであろう。
ということは、彼らの目的は最初から人を殺すことにあるわけで、その為の言い訳が宗教であって、敬虔なイスラム教徒だからキリスト教徒を殺戮する、というのは最初の目的をカモフラージュするための方便でしかない。
こういう現状を見るにつけ、アメリカを非難する日本の知識人の思考は一体どうなっているのかと言いたい。
アメリカ政府だとて、聖人君子でないことは歴然としているので、彼らも過誤を犯すことは当然ある。それはそれで彼らもそれなりの反省はしているであろうが、だからと言ってテロをする側を容認するわけにはいかない。
日本の知識人はこういう場面で、他者に対して良い格好し、権力者には抵抗のポーズを示し、自分の方が統治者よりも賢いのだよ、ということを暗に示そうと、綺麗事をのたまう。
アメリカの施策に協力することが非常に恥ずかしい行為と捉えているようで、そこが極めて日和見である。
クエートに攻め込んだフセイン大統領にも一分の理があると説き、WTCに突っ込んだい9・11テロにもアメリカの傲慢への仕返しとらえ、証拠もないのにアフガンを攻撃した、と説いているが、こういう言辞はすべて当事者ではない傍観者としての綺麗事にすぎない。
あれだけのことをされたアメリカが、何もせずにおれるわけがないではないか。
あの場に立てば、正義も善悪も善し悪しも関係ないわけで、何か報復をしなければアメリカ国民として黙っておれないではないか。
アメリカの偉大なところは、ああいう状況でも反対意見を言うことができる状況にある、というところにある。
アルカイダの中、タリバンの中、フセイン大統領のイラクの中、金正日の北朝鮮の中で、そういうことを言う自由があるかを考えた場合、我々はどちらを望むのだ。
我々の日本は、アメリカ以上に何を言っても許される国で、これは極めてありがたい状況に置かれているということである。
幸福な人は、自分の恵まれた環境にマヒして、常に不平不満を漏らしがちであるが、我々が自分の政府に言いたい放題のことが言える、ということは極めて恵まれた環境に置かれているということである。
イスラム教徒の視点からアメリカを見ると、アメリカの繁栄はその後ろにいるユダヤ人に踊らされている姿で、湾岸戦争でアメリカ軍がサウジアラビアに進駐したのはユダヤ人の陰謀である。
だからアメリカ人は無差別に殺してもいいという論理は、まさしく無知の言うセリフであって、「風が吹けば桶屋が儲かる」式の荒唐無稽な言い分である。
イスラム教徒が一日5回も6回もお祈りしている間にアメリカ人は額に汗して働いているわけで、アメリカの繁栄はそういうものの結果であった。
昨今のアメリカは、そういう額に汗して働くことを蔑にして、マネーゲームに現をぬかしていた面は確かにあるが、それにしてもユダヤ人に騙されて働いているわけではなく、様々な民族がそれぞれに額に汗して働いている。
働くという意味、金を稼ぐという意味からすれば、中近東の人々の方が勤労感謝という面では他の地域の人々よりも劣っている。
特にオイルダラーが流れ込んで、不労所得の上に成り立っている砂上の楼閣よりは堅実なのがアメリカである。
ここでは価値観の違いがあるので、それを比較検討しても意味をなさないが、アラブのテロリスト、イスラム教徒のテロリストも、西洋の物質文明は必要なときは臆面もなく利用しているわけで、ただただ彼らの都合によって都合のいいようにイスラムの戒律と、キリスト教文化を使い分けている。
イスラム教徒だからキリスト教文化のものは一切拒絶するとなれば、それこそアラビアン・ナイトの世界に舞い戻らねばならない。
ラクダによるキャラバンでは、テロに使う爆薬も運べないはずだ。