ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

大学の仕事

2007-11-16 17:00:20 | Weblog
本日の朝日新聞、朝刊14面にイギリス、ケンブリッジ大学長のアリソン・リチャード女史が東大130年周年を記念してコメントを寄せている。
ケンブリッジ大学といえば私ごとき無学なものでもその名声は承知しているが、そこのトップが女性だということは大いなる驚きであった。
そして、そのタイトルが「大学の仕事は終わらない」という標題であった。
彼女の論旨は読んでみればもっともなことで、学問の重要性は21世紀以降も今まで同様なんら変わるものではないというものである。
彼女は言う。
「21世紀の課題は、優れた賢い個人が本拠地だけで研究したり教えたりすることを超える国際的なアプローチだ。地球的視野は有益なだけでなく必須だ」と述べている。
もっともなことだと思う。
ここで我々が注視すべきことは、彼女、つまりケンブリッジ大学のトップが「優れた個人」と言っていることである。
戦後の我々にはこういう発想が欠けている。
欠けているというよりも、こういう発想を黙殺してきた。
黙殺したというよりも、こういう発想を「悪」と認識していた。
「個人の尊厳」とか、「個性の尊重」といいながら、人よりも秀でた人間を押さえつけ、そういう個人が能力を発揮することを押さえつける志向を推し進めてきた。
知性や学問の低値安定を狙ってきた節がある。
何でも平等という意味で、個人の特性を押さえ込み、人より秀でた能力はスポーツの場合だけ(運動会で順位を競うことを拒む例もあるが)尊重され、学問や知性や感受性という面では、そういう個人の持った特性を押さえ込んで、皆、一律にという思考を推し進めてきた。
この世に生まれ出でた人間で、人と同じというのはありえなず、個々の人間の能力は天と地ほど差があるものを、それを全部平均値の枠の中に押さえ込もうとでもするかのようなことをしてきた。
その意味で、西洋の人々は「個の確立」という概念が定着している分、優れた者も逆にそうでない者もそれにあった対応がなされているが、我々は何でもかんでも平等こそが至上主義であったわけで、学校間の学力の格差さえも是正しようと躍起になった時期があったではないか。
ヨーロッパの人々の生きがいと、我々、日本人の生きがいにはかなりの差異があるようで、その相違点は如何に人生を楽しむかという根本思想の違いだと思う。
この世に生を受けた人ならば誰でもが安楽に生きたいと思うのが当然であろう。
しかし、この安楽という定義に我々とヨーロッパ人の間には大きな差異があると思う。
ヨーロッパの人々は、分に応じた安楽で満足しているに違いない。
というのは、ヨーロッパでは階級制度というのは暗黙のうちに存在するわけで、自分の置かれた社会的な地位あるいは境遇を超越してまで、無限大の欲望を追及するなどということは想定外のことだと思う。
ところが、我々の側は、階級というものは戦後一切消滅してしまったので、それこそ人は平等になったわけだから皆が皆、大学に進学するのが当然で、皆同じように均一に裕福でなければならないという発想に至っている。
よって大学が幼稚園化してしまったではないか。
高等教育などというものは国を担って立つものだけが受ければ充分だ、という思考を超越してしまって、皆が皆、均一の高等教育を授けるべきだという認識に至っている。
人は誰しも教育、あるいは学問、知性、教養というものは、無いよりは有ったほうがいいに決まっている。
しかし、現実の問題として、飲み屋のオッサンや、喫茶店のマスターや、土建屋や、運転手や、その他社会を構成しているすべての職業に高等教育が必要であろうか。
学士様でなければならないであろうか。
今の日本の大学の現状というのは、まさしく経営に失敗した英会話教室のNOVAと同じではないか。
大学の経営というものがまるでパチンコ屋やゲームセンターと同じ経営感覚で行われているではないか。
学問のガの字も有るかどうかわからないような大学が雨後のたけのこのように乱立しているではないか。
大学などというものは基本的にもっと真剣に学問を追及すべき場所であって、学歴社会の免罪符としての卒業証書を乱発すべきところではないはずである。
学歴社会において卒業証書をありがたがる傾向というのは一般社会の方にも責任がある。
民間企業でも、新卒の大学卒業生でなければ、自分の社の社員として認識しないという弊害があるわけで、中途採用では最初から社員として認めないという悪い慣習がはびこっているがゆえに、若い人が学歴ほしさにNOVAのような大学に擦り寄ってくるのである。
公務員の場合は当然登用試験で採用されるが、この場合は基本的に学歴の有無は無関係に行われるべきで、試験の内容として大学出に相当する問題を科すということは明示してもいいが、基本的には学歴を問わないという風でなければならないと思う。
日本に必要な大学は、旧帝国大学の数ぐらいが適正な数だと思う。
そういうところで本当のエリートに真の学問を修めさせるという発想に至らなければ駄目だと思う。
猫も杓子も、あいつが行くから俺もいく、良い企業に就職したから良い大学に行く、などという就職予備校ではないはずだ。
就職のための勉学ならば専門学校で充分で、そういうものは大学とは呼ばせず専門学校のままでいいと思うし、むしろ実践的な専門の技術を習得させる実践力や即戦力のある卒業生にすべきだと思う。
学問などというものはきわめて少数の選りすぐりのエリートだけが励めばいいことであって、あとの有象無象の平均並みの人間は、もっともっと倫理を学ばせて、社会的な悪をこの世から自然消滅させるように道徳的に優れた人材を養成すべきだと思う。
大学の教育が義務教育に等しいほどに低下したということは、大人になっても子供の躾をしなければならないということ裏返しの現象だと思う。