波乱の海をぶじ目的地へ

現世は激しく変動しています。何があるか判りませんが、どうあろうと、そんな日々を貧しい言葉でなりと綴っていけたらと思います

バスケット

2018-11-30 23:05:20 | 超短編




「おねえちゃんよ」
 酔っぱらいはそう言って、足を通路の半ばくらいまで伸ばして、ボンと鳴らした。
 座席に腰かけてうつらうつらしていた若い娘が、酔っぱらいの足音と声に揺さぶられて、くらくらっと動いた。けれども目を開くまでにはいかなかった。
 そこで酔っぱらいは、二度目の床を鳴らしにかかった。今度は足を前回より伸ばして、高く揚げた靴を力を込めて床に下ろした。前回伸ばしたとき、通路の半分くらいと思ったが、実際はそんなに伸ばしてはいなかった。いくら日本の線路が狭いからといって、それほどの大男がいるはずはない。何でも拡大して眺めるオイラの悪い癖と思ってくれればいい。
 娘は二度目にボンとやられて、目を開いた。
「えっ?」
 と、不意を突かれたような声を出した。
「オレだよ。あんたの前に坐っている、人相の悪い、
酔っぱらいだ」
 と男は言った。その声に若い女は、はっきり目を開いて男を見た。五十代半ばの男がへらへらしている。
「何か」
 と女は言った。
「あんた、そこで猫を見かけなかったか。全身鼠色の猫だ。少し前、A・K駅で、乗客がごっそり降りて行く前のことだ」
「猫なんか知らないわ、私。そもそも電車に猫は乗れないことになっていて、居るはずないですよ、猫なんて」
「ところがいたんだよ、その猫が。だからオレは問題にしているんだ。いるはずのない猫が、電車の中を堂々と歩いていれば、取り上げない方がおかしいだろう。そう思わんかね、あんたは」
 男はようやく話ができたのが、嬉しいらしく、そう言った。
「それはまあ、実際に猫を見たか、見なかったかによりますわね。私は見ていなかったんだから、何とも言えません」
「ねえちゃんそうやって白を切るけどよお、現にオレはこの目で見てんだよ。猫は堂々と散歩気取りでやって来て、あんたの前で立ち止まった。あんたの膝に乗ろうか、まっすぐ前に進もうか。考えているふうだったな。そのうち電車が停まって多くの乗客が降りていき、オレの観察も効かなくなった。 猫が乗客に紛れて、電車を降りたとは思えないんだな。ここまで歩いてきて、あんたの膝に乗りたそうにして、あんたを見上げて、あんたも優しい顔をして、猫を見ていたんだ。見上げるものと、見下ろすものとの、目の呼吸が一致したんだ。憐れむものと哀れまれるものの目が、全く自然に一致するなんて、珍しいことだ。それがここで実現したんだ。
 猫がオレの方に寄ってくれば、オレは膝を提供するようなことはしなかっただろうから、猫に人を見る目があったとは言えるんだがな……。
 そんな中で電車が停まって、やつはドロンした。オレを見向きもしないで、消えやがった。
 その猫の行先が判らないと、オレは気分がよくならないんだ。教えなよ、あの猫をどこに隠したんだよオ」
 男はまた声を大きくした。声の大小で気持ちを表現するのは酒飲みの典型なのかもしれないが、この女は特にそういう酔っぱらいが嫌いだった。この酔っぱらいは、私が猫を隠したと言っているけれど、どこに隠したというのだろう。。どこにもそんな場所なんかないのに。
 このときふっと、足元に足で庇うようにして置いているバスケットが目に浮かんできた。さてはこのバスケットに猫がいると思っているのかもしれないわ。それならさっさと中を見せて、疑いを晴らしたほうがいいかも知れない。若い女はそう思って脚の下からバスケットを引き出して、中の小物を取り出し、中がはっきり見えるようにした。
「私が猫を隠していると、疑われているようですけど、私の荷物はこれだけで、中に猫なんかいませんからね。よーく見てくださいな」
 女はそう言って、酔っぱらいの目に見やすいようにバスケットを傾けた。男は背を伸ばしてバスケットを覗いた。
 なるほど女の言うとおり、バスケットの中に猫はいない。一瞬女魔術師かと、女の手元をうかがったほどだった。
 しばらくして男は漏らした。バスケットの中に、確かに猫はいない。この女は正しい事を言う。前に別れた女とは大きく違う。
 男は感心して、若い女に目をやった。女を見直す転機ともなった、電車の中の若い女を見つめていた。別れた前の女は、飼っていた猫に、あまりにも贅沢をさせすぎていた。その猫の世話代だけでも、生活に支障をきたすようになり、そんな猫、人にやるなり、捨てるなりしてしまえと激昂して、いつも猫が夫婦喧嘩の発端になっていた。
 その日も夫婦喧嘩が本格化して、収拾がつかなくなり、ついに女は猫を捨ててくると言って、猫を鷲掴みにして乱暴に扱いだした。フライパンで殴るだけでなく、男に枕を投げつけるようにして、猫を投げつけてきたりした。
 これではこれから女と暮らすことに不安を覚え、猫を手放すだけでなく、女をも併せて手放すことで話を進めだした。女の両親は既に他界していたが、身元引受人のような形で叔父がいて、その叔父が間に入って離婚は成立したが、離婚後の女の生活費として、男の収入の半分以上は消えてしまうという無残な別れになっていた。
 そこで登場したのが、猫が発端になったとはいえ、この若い女だったのである。男が色めき立ったとはいえ、少し大目に見てやらねばなるまい。
 そんな男の翻意など知るよしもなく、女はこれでなんとか解放されたと思い、それにしてもこんな男の近くにいるのは宜しくないと、バスケットを手にして、席を立ち上がった。
 仰天したのは男である。こんなに早く離婚が成立するとは考えてもいなかった。しかも女の正しさを、バスケットの中を広げることで示してくれた矢先のことである。
「ちょっと待った。行くのはちょっと待ってくれ」
と男は必死になって、女が席を離れるのを止めようとした。
 乗客たちが今度は何が起こったのかと。気を揉むのも当然と言える。

❷の未完

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