波乱の海をぶじ目的地へ

現世は激しく変動しています。何があるか判りませんが、どうあろうと、そんな日々を貧しい言葉でなりと綴っていけたらと思います

雪解川

2019-03-12 02:09:47 | 超短編




 日曜日、いつもは昼近くまで寝ていて、母親に小言をいわれている姉が、
珍しく早々と起き出して来て、弟が訝しく思っていると、すっぴんの普段着
のまま、町へ出て行った。どうしたことだろう。不審顔の弟に、姉は間もな
く戻ってきて、
「これ、お花の種。庭に蒔いておいてね」
 と差し出し、時々くれる小遣いにしては多い額を押しつけた。花の種をま
く手数料が込になっているなと、大学生の弟は思った。それから姉は念入り
な化粧をしすっかり春の装いになって、三面鏡の前で春コートの試着をは
じめる。年間一着のコートしかない弟に比べて、姉は春コートだけで三着は
持っている。
「これがいい?」
 と訊くので、弟は、
「いつにもなく早く起きて出かけて行き、花の種なんか買って戻ってくるか
ら、変だと思っていたら、本番はこれからだったのか」
 と言ってやった。彼とのデートと分かっていたが、そのことには触れなか
った。というのは以前、音楽喫茶「ウィーン」でモーツアルトを聴いている
と、近くの席に姉が彼と一緒にやって来て、弟を見つけると、姉は一人歩み
寄って来て、
「雅夫、お母さんたちには内緒だよ。近いうちに彼を連れて行くんだから、
顔見せに」
 と言って、男を振り返って仄かに笑った。
「はい、これ。どうせないんでしょう」
 と財布から小遣いをくれた。
 そういうことか。弟は黙って頷き、レクイエムが佳境に入る前に、小遣い
と伝票をさらってレジに向かった。
 弟はその時のお釣りの重さを、めったにない祝福と感じて、ウィーンをあ
とにしたのである。
 弟は姉が最後に身につけた春コートの華やかさに目を洗われながら、あの時
姉が 「顔を見せに行くんだから」と口走ったことが、いよいよ実現するん
だなと噛み締めていた。すると花の種を弟に蒔かせることも一連のものとし
て考えさせられ、蒔くのを一週間遅らせてやれとの反抗も引っ込めざるを得
なくなった。一週間遅らせれば、花開のは、彼が帰った後ということになり、
二人の出会いを喜ばない弟を演出することになってしまう。それはいささか
不本意だ。片付くものは。早くそうなったほうがいいのである。
「今着ているのがいいよ。春の季節にもぴったりで、見ているものを急かせ
るしね。ぼくも早くサラリーマンになろうと思った。小遣い貰うばかりじゃ忍
びないからね」
「あら、ごめんね。いつも少ししか上げられなくて、なんか足りないところ
を突かれたみたいね。よし、もう一枚奮発するか」
 姉は言って、自分の腹の辺りをぽんと叩いた。
「そんなんじゃねえよ」
 弟は言わんとするものが通じなかったと見て、頭を振って言った。
「私雅夫がウィーンに一人で行ってたなんて、知らなかったわ。そんな雅夫
が一人前のサラリーマンなんかになれるのかなんて、考えてしまったわ。結
婚なんかしたくないんだけど、一緒に生活したほうが、経済的なことってあ
るのよ。そうすれば雅夫にも、お小遣いなんかじゃなく、学費としてだして
あげられるんじゃないかって。雅夫、今でも大学に残りたいと思ってるんで
しょう。お姉ちゃんお前の相手をしてあげられなくて、今になって後悔して
るのよ。学校の友達とだべることばっかしていてさ。大切な時に、お前を一
人ぽっちにしてさ。成長に役立つようなこと、何もしてあげられなかったじ
ゃない」
 姉は言って、財布を出すと、足りなかったものを補うように一枚出すと、
弟に差し出した。弟は話せば話すほど、悪い方向に落ちていく気がして、紙
幣を半分に引き裂いてしまった。
 姉はそれをオロオロ顔で見つめ、頭を抱えて座り込んでしまった。
「私、あんたを責めないわ。私を責める」
 そう言って唇を噛んでいたが、ふとそんな己と闘うように立ち上がると、
着込んだ外出用の装いを脱ぎ払ってしまった。そうして普段着になると庭に
出て鍬で地面を耕しはじめた。
 雅夫は忍びなかったから、勝手口を出て、満々と水をたたえて流れる雪解
川の土手に立った。
 父は会社のゴルフクラブの旅行で出かけていたし、母も同窓の三人ほどで
古典芸能の鑑賞とかで出かけていた。その母からの携帯が鳴って、
「お姉ちゃんが、いくら電話をしても出ないから、行ってみて」
 と慌てた声で言った。
「心配ねえよ。さっき庭の花畑を耕していたよ」
 と雅夫は言った。
「それでおまえは今、どこにいるの」
 母のうろたえた声は続いていた。
「雪解川」
 と弟は言った。
「危ないよ、水がいっぱいで。雪解川で何してるの」
ただ見ていただけさ。さっき大きな鹿が流されて行った」
「鹿が流されていったの。生きてる鹿が?」
「たぶん死んでるさ。角に古ダンスなんかが被さってるのに、払いもしなか
ったからね」
「もういいから、早く土手を降りて、お姉ちゃんに言いなさい。電話するよう
にって。二人とも、変なことをはじめたもんだよ。畑をおこしたり,雪解川
を見たり。

end 




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