波乱の海をぶじ目的地へ

現世は激しく変動しています。何があるか判りませんが、どうあろうと、そんな日々を貧しい言葉でなりと綴っていけたらと思います

ホームのおでんの店 完

2019-02-20 23:43:28 | 超短編






電車が繁太の住む都会の駅に着いて、ホームに降り立ったとき、彼は何か忘れ物をしていることに気づいた。何だろう。自問するまでもなく、いつも携行している小さなバッグがないのだ。どこで忘れたのだろう。これも問うまでもなかった。電車に飛び乗るまでいたあのふるった名前の浮いた店だ。
~~お散歩おでんの店~~
 そこのカウンターデバッグを開けてメモ帳を出し、ふっと閃いた句を書きとったのも覚えていた。長く馴染みにしていながら、その店の電話番号も知らなかった。人権にかかわるような、大切なものは何も入っていないが、ひとつだけ紛失すると自分の悲劇として襲いかかって来るものとして、亡き母の小さな写真があった。しかしそれは、彼自身にとってはかけがえのないものではあっても、他人には何ら価値のあるあるものではなかった。そんな無益なものを持っていること自体が、邪魔になるものだろう。だから無益なものはそのまま、そこに置かれるというものだ。古株の従業員が見つけても、そのまま奥に保管しておいてくれるかもしれない。
 彼はその線に期待して、次に店を訪れるまでそっとしておくことにした。明日にでも行きたいところだが、ちょっと仕事が混んでいて、予定が立たない。
 結局彼は一日置いて店を訪れた。暖簾をくぐると、二人の従業員が
「あら」
 と驚いた顔をして、奧に叫んだ。
「リンコさーん、息子さんがお見えでーす」
 彼を見るなり、二人声を揃えてそう叫んだ。彼は不埒を犯して今帰って来たような、不穏な気分にかられて立っていた。
 奥から賑やかな声が沸いて、リンコという古株の従業員が、彼の小さなバッグを持って現れた。
「あなたが当店に通って下さる理由がはっきりして、良かったわ。このはしたない私を、母親のように思って下さったのね」
リンコは滴る鼻水を抑えようとして、近くにあったダスターを鼻の下にあてがった。同僚が新しいお絞りをリンコに渡して言った。
「母と子が出会うなんて、めったにあることじゃないの、恥ずかしいことなんてまったくない」
「お母さん、いつお亡くなりになったの」
リンコが冷静になって訊いた。
「二年前、病院に駆け付けたときには、息がなかった」
 と彼は言った。
「人様の鞄を開けるなんて,いけないと思ったのよ。でも鞄をなくして心配しているあなたのことを考えると、黙っていられなくて。結果は連絡できるようなところは何にも出てこなかった。けれども出てきた写真を見て、みんなびっくり。この写真の人が私だって、きかない人も出て来て、最後はあなたが私の隠し子だなんて言いだす人も出て来て。そんなお客様を隠し子なんて言わせるのは、あんまり失礼だから、私必死に探したのよ。それこそ無学の私が必死によ。そしたら出てきたの。あなたの二冊のメモ帳から」
リンコはそう言って、彼のメモ帳から控えたものを広げて見せた。そこには過去、この店で浮かんだ短歌らしきものが走り書きしてあった。

亡き母が吾に残した置きみやげ
よく似た人は母の妹?

さつま揚げその味もまた酷似して
足繁くなるおでんの店に

彼とリンコを並べた写真をスマートホンに収めると、
「リンコさんずっと若返って、お母さんと息子じゃなく、お姉さんと弟だよ」
 リンコの隠し子にまでしてしまった同僚も、反省してそんなふうに言った。それからは彼を大切な客として、丁重に扱った。
 彼は不埒を犯して家に帰った息子になって、本格的に食べたり、飲んだりした。不埒な男なら、ビールの三本くらいいいだろう。そう考えて、三本目を空にしたとき、ちょうど電車が入って来た。
彼はその電車に乗ろうとして、席を立った。その彼に従業員の一人の女が、
「ほれ、忘れちゃ駄目でしょう」
 と鞄を押しつける。彼は慌てて、それを受け取り、出口へ急いだ。振り返ると、リンコがおでんの鍋のところに立っていて、
「またいらしてくださいね」
 と小手を振り優しい声で言った。その口元が笑っているので、彼はほっとしていた。





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