波乱の海をぶじ目的地へ

現世は激しく変動しています。何があるか判りませんが、どうあろうと、そんな日々を貧しい言葉でなりと綴っていけたらと思います

流浪の男

2012-06-20 08:34:14 | 掌編小説



   ☆


 アフリカコンゴの南西端、大西洋に臨む草原。
 一羽のダチョウがおれを見るや、突然走り出した。
 長い脚を大股に開いて。
 走り出す前に、ちょっとばかり、目交ぜのようなことをぱしぱしっとやって、それから駆け出したのだ。
 ―今に見てな、あんた私に首っ丈になるわよ―
 てなぐあいに、色目をつかい、枯れた葉っぱをくっつけたみたいな、ほぼ丸出しのヒップを振って、助走はゆるやかに、背で待つふうに。
 おれはこんな女を、日本でうんざりするほど見せられてきたから、乗り気じゃなかった。いや、本当。
走ればおれが後を追ってくると、高を括って、コンゴの草原の砂埃を蹴立て、まっしぐらに走る。走る。
ところが彼女は、弾丸列車のように真っすぐ突っ走るだけで、おれに追われていると確信してか、振り返らないのだ。振り返るのは彼女のプライドが承知しないというだけじゃない。
走っているうちに、おれのことを忘れてしまったんだな。おれという男が彼女の中から脱落してしまったんだ。それはぎらつく南国の太陽のせいだ、なんていうつもりはまったくない。当のおれは彼女を追いかけなかったのだし、忘れられても無理はないけどね。
大きな図体の割りに、あの小さな頭では、記憶を長く保たせるなんてできないのだ。しかもあれほど猛スピードで驀進すれば、走るためにエネルギーを費消してしまって、記憶にとどめて置ける時間は、分単位になってしまう。
目前に別な旅人が現れれば、そちらに気をとられてしまい、おれなんか彼女の中から消されてしまって、甦ることはない。
これは相手が、アングロサクソンであるとか、同国人であるとか、ターザンのように筋骨隆々としているとか、そんな前時代的な価値基準ではない。彼女に過去はなく、いつだって、その時その時、目の前に現れたところからはじまるのだ。
そこでまた彼女は色目と媚態をふんだんにつかって、草原をさらに内陸へと駆け出すのだ。そこで旅人が彼女を追いかけるかどうかなんて、おれの知ったことではない。
 翌朝には、彼女は海に接する砂浜に戻っていて、棕櫚の木の下をのんびり歩いていたりする。前日より、口は赤く、目の縁は黒々として。

おれは自分が彼女の中から完全に消えているのか、それとも微かにでも残っているのか知りたかった。
そこで彼女の好みに合うと思えるサイケ調のアロファを着て、パイプ片手に、ゆっくり近づいて行った。二メートルまで接近すると、彼女のお株を奪って、気のあることを目顔で知らせた。
 ところが、有ろうことか、彼女はつんと顔を逸らしてしまったのだ。そして海に顔を向けたまま歩み去って行った。
ここでおれは判断に窮することになる。もしいささかでも、おれを覚えていたら、何らかの反応が表われたのではないか。一方知らない男が現れたのであったら、そこで彼女の十八番を、この時とばかりやってのければよかったのだ。
 まず色目で相手を悩殺し、内陸に向かって腰をふりふり、駆け出せばよかったのだ。
 それをしなかったとすれば、あとは何だ。おれを彼女の内に残していながら、最初に追いかけなかった者は失格ということなのか。機会は一度しか与えられていないということか。
おれは女の心が分からなくなった。日本にいて分からなかったものが、アフリカもコンゴくんだりまで来て、さらに分からなくなった。