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[電車の中で]
僕は電車の振動に身を委ねながら、執拗に襲掛かる睡魔と闘っていた。その眼をようやく開いたとき、電車がどのあたりを走っているのか見当がつかなかった。
白髪で小柄のおばあさんが、僕のすぐ横のパイプに掴まって立っていた。布製の手提げ袋がやや重そうだった。
いったいどのくらい眠ってしまったのだろうか。そして、いつから彼女はここに立っているのだろう。
そんな自問をしながら、おばあさんに席を譲ろうとして立上がった。彼女は初めぼんやりしていたが、僕が席を譲ろうとしていると知って、皺に囲まれた瞳が朝の湖のように耀いた。それほど僕の行為は、タイミングを外れていたのだ。
「あらあら、ご親切に」
「いやあ」
僕は気づかずにいたばつの悪さを、頭に手をやる仕種でごまかしていた。
僕は吊革に掴まっておばあさんの前に立った。彼女はしきりに口を動かして、何か呟いているようだった。ふと、視線が僕の膝の辺りにきて、口の動きが止った。
具合の悪いことになった。僕のジーパンは両膝が見事に擦り切れて口を開け、肌がくっきり覗いていたからだ。それこそ土色の沼のように。
おばあさんはしばらくその辺りを注視していたが、手提げ袋の中をまさぐりだした。その間、電車はおそらく、二つ、三つの駅に停車しただろう。何しろ、内密に事を運ぶのだから大変な苦労だ。そこから小さく折畳んだものを取り出し、その手で僕をつついた。
彼女が何か言っている。今度は口の動きだけではなく、叫ぶほどの声だ。
「こ、こ、これで、ズボンを買いなさい」
僕はまたまた悪びれて、
「これは、その好きで……」
などと、擦り切れたジーンズの言い訳をしていた。けれども一徹なおばあさんの耳に届くはずはなく、容赦しないとばかりに折畳んだものをつきつけてくる。
拒んでいると、彼女は両手を使って、僕の掌に押し込もうとした。
このとき手放してしまった彼女の手提げ袋が床に落ち、中から瓶詰めが二つ転がり出た。弾みで僕は手に五千円札を握らされたまま、床に転がった瓶を拾いにかかった。
拾い上げておばあさんの袋に納めたとき、電車はD駅に滑り込んだ。彼女の降りる駅だった。僕の駅はもっと先だが、彼女に続いて電車を降りた。
「あなたも、ここかね」
「いえ、こんなに貰ってしまって悪いから」
僕は苦笑って、彼女の荷物を持とうとして手を出した。
「何、こんなもの、年寄りの力を甘く見ちゃいけないよ」
軽くいなしてホームを歩き出した。僕は混雑から老人を守るような形で、なんとなくついて行った。
「学生さん?」
「ええ」
「国は?」
「北海道」
そんなことを片言に言い交わしつつ、改札に来ると、おばあさんは僕を押しとどめて矍鑠とした足取りで先に進んで行った。
僕は依然擦り切れたジーパンを愛着していた。貰ったお金は、新しいパソコンソフトが出たときの購入に充てるつもりでしまっておいた。
ひょっこりおばあさんに出会ったらどうしよう。そんな不安が頭をもたげて、おちおち電車にも乗っていられない気持になった。
そんな思いが高じると、僕はたまらずジーンズを膝のところで切ってしまい、ショートパンツにした。それでもまだ心配で、サングラスをかけた。
朝夕、肌に触れる風のそよぎに時に冷ややかさを感じる季節になった。僕はまだ短パンにサングラスで通していた。
ある日、席を取って、ふと顔を上げると、前のシートにあのおばあさんが坐っていた。口をもぐもぐやっているので、すぐ分った。
彼女は僕の肩越しに遠い雲のさまでも眺めるように、ぼんやり視線を向けていた。その眼がぎこちなく動いて、僕の脚に落ちた。顔を見られなかったのがせめてもの救いだった。
おばあさんは僕の太腿の半分から下が露であるのに慌てたらしく、老人らしからぬ敏捷さで、顔があらぬ方角へと振向けられた。汚らわしい。ここまでくると、もう援助の手を差し伸べるどころではない。そんな決然とした拒否の姿勢が表れていた。
おばあさんがD駅で降りて行った後、僕らしくもなくしばし物思いに耽っていた。心の奥に刺さっていた棘のようなものが、ずきずき疼くようだった。
おばあさんの善意を、パソコンソフトなどに摩り替えてはならないと思った。
一度この反省が頭をもたげると、僕はたまらず駅近くのヤングショップに飛込んだ。折よく特売日で、ジーパンを激安の値で購入した。
新しいジーパンはすぐ体に馴染んでいき、それに併せるように有難みが湧上がってきた。今こそおばあさんに会って、見せてやりたくてならなかった。
電車が空いているときなど、僕は知らず知らず首を廻らせておばあさんを探すようになっていた。
ある日、席についてすぐ、普段と違った気配に眼を上げた。通路を挟んで向かい合った席に、あのおばあさんがいたのだ。
おばあさんは今日も口をもぐもぐやって、どこか遠くを見る眼つきをしている。
僕は体ごとおばあさんに飛び込んで行き、彼女の前の吊革に掴まった。
「ほれ、おばあちゃん。僕にぴったりでしょう。これ前に、おばあちゃんに買ってもらったんだ」
彼女はぼんやりしていたわりには、敏捷に反応して、目前のジーパンを品定めする目色になった。
「それで、あの半ズボンはどうしたかね」
あまりに予期しなかった展開に、僕はうろたえて、
「半ズボン?」
と返しただけだった。耳の先まで熱くなり、顔が真っ赤になったことは明らかだった。
「私はあの半ズボンのショックが大きかったもので、しばらくどれも短パンに見えて仕方なかったよ。昔孫がそっくりの格好をしていたからね。孫はドライブで飛ばし過ぎ、衝突して死んだけれど」
僕は僕で、あまりのショックから依然ことばを継げないでいた。おばあさんは続けた。
「何を買いたかったんだね。短パンにまでして」
「ゲームソフト、パソコンの。新しいのが出ることになっていたから」
僕は悪びれて頭をかいた。
「パソコンなら、いいさね。危なくないから」
おばあさんは言って、布袋の中をまさぐりだした。しまった。またつまらない事を言ってしまった。今度は五千円札がなかったらしく、千円札を纏めて僕の膝に押し付けてきた。
「悪いよ、そんな何回も」
僕は半ば自分への怒りで、口を膨らませていた。
「孫にもよく騙されたもんさ。みんな車に消えていたんだ。今日遇ったのも何かの因縁さ。いいから、これで買いな」
「でも、買ったかどうか信じてもらえない」
僕は依然身を強張らせていた。穴の開いていないジーパンの膝がスースーしてならなかった。
「信じるさ。しるしはこのズボンさ。ソフトを買わないで、おまえさんはジーパンを買った、じゃん」
「じゃん?」
僕はびっくりして跳び上がりそうになった。衝撃につられて、纏めた千円札を受け取ってしまっていたのだ。
おばあさんの口元には、してやったりといった笑みが浮かんでいた。
僕は涙がこぼれそうになって、顔を上げた。
――人生はこんなに甘くない――
夢を見ているような気がして、僕は眼を落とした。おばあさんが口をもぐもぐさせて、車窓に眼をやっていた。牛が反芻しながら遠い雲のさまを眺めるように、どこかのんびりして優しく、慈愛に満ちた眼差しだった。
僕の前の車窓にも青空が広がっていて、積雲がにじんでいた。その白い雲の一点に眼を据えて、僕は電車に揺られて行った。
後で調べると、千円札は五枚ではなく、七枚あった。
了