Heal-log

つれづれなるままに。

蓮見て思ふ。

2005年07月11日 | つれづれ


気付かなかったが、蓮が見頃を迎えている。
夕方近くの蓮の花は、半分閉じていたけれど、あたり一面を埋め尽くした花は圧巻で、暫く見惚れてしまった。
ちょっとした極楽浄土だ。

蓮は「泥の中より生まれる」といわれるが、果たしてそこは沼である。


けれども、大きな葉は泥を見事に覆い隠し、濁った水から育ったとは思えないほど、気高く見えた。


さて、蓮と聞いて連想するのは、やはりお釈迦様だろう。
「蓮花は淤泥の中に生ずれども、而も汚泥に染まず」というのも、お釈迦様の言葉である。
何とも深い、と思う。

ところで、蓮⇒お釈迦様⇒・・・と来て、次に連想するのは何か。
私の場合、それは芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に辿り着く。
原作と、奇妙な「続編」に。

私は仏教系の高校に通っていた。
宗教は必須科目だったが、それほど熱心に布教されるわけではなかった。
授業では沢山の「へぇ」を知り、心に残る話も沢山聞いた。
結論から言うと、宗教の時間は結構楽しかった。

ただ一つ、例外的に「?」と思ったのが「蜘蛛の糸」だったのである。

その日は何故か、幼児向けのビデオ教材で「蜘蛛の糸」を見ていた。
主人公・健陀多が、自分に続いて糸を上ってくる罪人たちを怒鳴りつけた瞬間に糸が切れ、お釈迦様は悲しそうな顔で一部始終を見ていた・・・
お馴染のラストシーン。

かと思いきや、続編が始まる。

再び地獄に落ちた健陀多は、嘆いている。
何故糸が切れたのだろうかと。
初めは、自分の後に随いて来た罪人のせいにして憤っているのだが、そのうちその考えが間違っていることに気付くのである。
糸が切れた原因は、自分の無慈悲さにあったのだと。
そして健陀多はひたすら反省する。

とその時、再び極楽から蜘蛛の糸が一筋降りてくる。
健陀多は今度こそ、と糸を手繰り寄せる。
もはや、どれだけの罪人が後から上ってこようとも、健陀多は気にならなかった。

そして、遂に彼は極楽に辿り着く。
そこには、微笑むお釈迦様の姿があった・・・


・・・とまぁ、芥川文学は見事にハッピーエンドになっていたのである。

どうやら「蜘蛛の糸」の結末(=救われない健陀多)は仏教的に「いただけない」らしかった。
ハッピーエンドはいいが、これはどうなのか。
幼児は信じてしまうだろう。
芥川もびっくりだ。

私には、仏教の教えは全然解らないが、釈尊本人が「蜘蛛の糸」を読んでも「これも一つの世の無常」と、サラリと言ってしまうような気がしている。

まもなく散るだろう蓮の花を見て、そんなことを思い出した。