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十一人塚についてNO73(西16)

2019-06-08 12:24:31 | 日記
「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 元弘三年(1333)5月19日、新田勢は大舘又次郎宗氏を大将として、極楽寺口から鎌倉に攻め入ろうとしたが、北条勢の中の本間山城左衛門が、手勢をひきいて、大舘宗氏の本陣に切りこみ、この為に宗氏とその家来、主従十一人は戦死してしまった。
 そこで遺骸をここにうめ、十一面観音の像を建ててその霊を弔い、この墓を十一人塚と称したという。

 {参考}
大舘宗氏
上野国(群馬県)新田郡におこった清和源氏、新田氏の流れをくむ者で、父の家氏が大舘氏を名のっているが、鎌倉攻めの総大将新田義貞とは同族である。
大舘宗氏は、鎌倉攻めの新田義貞の軍に在って、破竹の勢いで南下、鎌倉に迫ったのは、元弘三年(1333年)
5月18日のことであった。
 宗氏は、十万の兵を卒いて、江田三郎行義と共に極楽寺の切通しへ向かったというが、この人数は、かなり誇張があろう。
 5月19日の早朝、極楽寺の切通しを破って、宗氏の軍は鎌倉に突入せんばかりになった。以下、太平記巻十よりとると、
   本間山城左衛門、若党、中間百余人、これを最後と出で立ちて、極楽寺坂へと向かいける。敵の大将大舘二郎宗氏が三万余騎にて控えたる真中へかけ入って、勇み誇ったる大勢を八方へおっ散らし、大将宗氏に組まんと、すき間もなくぞかかりける。三万余騎のつわもの共、須臾(しゆゆ)の程に(しばしの間に)分かれなぴき、腰越までぞ引きたりける。あまりに手繁く進んでかかりしかば、大将宗氏は取って返し、思うほど戦って、本間が郎等と引組んで、刺しちがえてぞ伏したりける。本間大いによろこびて、馬より飛んでおり、その首を取って鋒(ひっさきょ)に貫き、・・・・
 ということになる。
 この本間山城左衛門は、守りの大将大仏陸奥守貞直の勘気を受けて、蟄居の身であったが、この時、命をかけての働きを主君貞直の前に見せて、そのあと自刃したのであった。
 なお、この碑に、「大舘又次郎宗氏」とあるのは、「大舘次郎宗氏」の誤りであろう。などという記述がありましたので、投稿いたします。

(十一人塚の碑)