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阿仏邸旧蹟についてNO72(西15)

2019-06-01 12:51:30 | 日記
「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 阿仏は、藤原定家の子為家の妻であって、和歌の師範家である冷泉家の祖となった為相の母である。
 為相の異母兄である為氏が、為相の和歌所の所領である播磨国(兵庫県)細川の庄を横領したので、阿仏は時の執権北条時宗に訴え裁決を願った。
 この訴えのために、阿仏は建治三年(1277年)、京都を出て東に下り、此の月影が谷の地に住んだ。そのときの日記を「十六屋日記」(いざよい日記)といって世に知られている。
 この細川の庄の所領争いは、長い年月にわたったが、裁決がおりないまま、弘安四年(1281年)、阿仏はついに此の地で亡くなった。

 {参考}
 阿仏尼(「藤谷黄門遺跡」を参考
 平度繁(佐渡守)の女で、安嘉門院(後高倉院の皇女邦子内親王)の侍女として、四条又右衛門佐と呼ばれた。後に藤原為家(定家の子)の後妻(側室の説もある)となったが、仏門にはいってからは、阿仏といい、北条禅尼と号した。
 擬古文(古代の文を模した文)の文学作品として知られる「転寝記」(うたたねのき)「十六夜日記」(いざよいのにっき)は、ともに阿仏の書いたものである。
 わが子為相と、その異母兄為氏との所領争いが起こるや、為相のために、母として京都から鎌倉にわざわざ下り、執権北条時宗に対して、じきじきに訴訟に及んだのであった。鎌倉在住の間、この地を仮居としたが、この土地をえらんだ事情はわからない。
 阿仏尼が京都を出てから四年が過ぎ、時宗に訴えはしたものの、裁決は中々おりないうち、阿仏尼は裁決を待たずに、この月影が谷に生涯を終わっている。阿仏尼のなくなった弘安四年(1281年)といえば、元軍が再度襲来した年で、幕府は、元軍撃退の対策に全力をうちこんでいる。時期であったのだから、阿仏尼の訴える一私領の所領争いなどは、おそらく幕府の眼中にはなかったのであろう。

 十六夜日記
 建治三年(1277年)に京都を出発して。鎌倉に着くまでを、旅行前記、旅行記として書き記し、さらに鎌倉についてからのことを書きつづけている。日記をまとめたのは、弘安三年(1280年)であるといわれ、京都を出発したのが十六日夜であったことから、この名がつけられたという。
 その内容は、まず孝道と為家の遺言を述べ、鎌倉へ下るために、子の為守とのしばしの別れの模様から、旅の途次の風物について記し、鎌倉についてからの身辺の動静、和歌の贈答などを記しているのであるが、その文も歌もまた観察も、特にすぐれているとは言えないが、全巻を貫いて人の心をひきつけるのは、子を思う母の真情のにじみ出ていることであろう。また、歴史的には、遺領相続の紛争や訴訟という。当時の公家社会の世相を知る上に役立つとされている。

 月影碑
 阿仏邸旧蹟の碑の脇に、もう一つの碑があり、
 「月影能 谷若葉して 道清志」
と刻まれてある。などという記述がありましたので、投稿いたします。