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仮粧坂についてNO52(裏6)

2019-01-06 15:38:36 | 日記

 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 気生坂、あるいは形勢坂とも書く。此の名は源平の戦いのころ、平家の大将を討ち取り、その首を仮粧して、首実検にそなえたことからおこったと言い、また一説には、昔此の坂のふもとに色里があったので、この名がつけられたとも伝えているが、「東鑑」(吾妻鏡)には此の名はきされていない。
 此の坂は、いわゆる鎌倉七口という鎌倉に出入する七つの重要な道の一つである。元弘三年(1333,年)5月、新田義貞の軍が鎌倉におしよせたときは、この道からも乱入したのであって、それ以来、しばしば戦場となったところである。
{参考} 仮粧坂
 仮粧坂と書くものもある。鶴岡八幡宮の赤橋から西に向かい、寿福寺前にでてから右折する武蔵大路は、この仮粧坂を通り、梶原を経て藤沢に向っている。幕府にとって最重要な道武蔵大路が通るという此の坂は、京都から東海道経由、あるいは関東北部からそれぞれ鎌倉に入る幹線道路の、所要だったといえよう。坂の途中まで、かなり住宅が建てつめて、生い茂っていた樹木も伐られてしまったが、くねった急坂のあたりは、七つの切通しの中で、最も往時の姿を残しているところといえよう。
 気生坂、形勢坂の字は「鎌倉大草紙」にかかれ、化粧坂は「曽我物語」が、そして化粧坂は「太平記」「廻国雑記」が記している。「吾妻鏡」では気和飛坂の字をあてている。
 新田義貞の鎌倉攻め
 元弘三年(1333年)、新田義貞の軍勢は、上野国(群馬県)新田で兵をあげてから、破竹の勢で南下し、小手指原、分陪、関戸の諸所で北条勢を蹴散らし、旗あげから僅か十日で藤沢の辺に本隊を終結した。鎌倉の攻略戦は5月18日から開始され、小袋坂、仮粧坂、極楽寺坂の、三切通しを破って、鎌倉内への突入を図った義貞は、本隊を率いてこの仮粧坂に向ったのである。
 しかし、北条勢が最後の決戦と必死の防戦につとめた為、小袋坂口が僅かに崩せただけで、新田勢の損害が大きくなるばかりとなり、義禎は一旦腰越近くまで戻った。そこで陣容をたて直して、極楽寺坂、稲村が崎を突破口とすべく、5月21日から総攻撃をしかけた。(「稲村埼」の碑)
 5月22日の夜明けとなると、さすがの北条勢も力つきて、三つの口はそれぞれ崩れはじめ、新田勢は堤を切った怒涛のように市中になだれ込み、諸所に火を放ったから、忽ちにして鎌倉の町中が紅蓮の炎の海と化し、鎌倉は一日にして破滅してしまったのであった。
 この曲りくねった急坂を下から見上げると、鎧武者が、馬が、矢が、叫喚の怒号がなだの如くに追いかぶさって来るような幻想にかられ、昼でも人通りの少ないこの古道は身のしまるような思いがする。
 その後、足利管領が鎌倉に住み、戦国の世となる問に、鎌倉はたびたび戦乱の巷となったが、その都度、この仮粧坂は攻める者、守る者の必死の戦場となり、多くの血潮が、この坂道には吸われたのであった。等と云う記述がりましたので、投稿いたします。

(仮粧坂の碑)

(源氏山公園 源頼朝公の碑)

(源氏山公園)