「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
藤原俊基朝臣は、政権を武門から天皇にとりもどそうとして失敗し、元弘二年(1332年)6月3日、北条高時の命によって斬られた。
「秋を待たで葛原岡に消ゆる身の露のうらみや世に残らん」
と詠んで、つきぬ恨みをとどめている所が此の地である。
{参考}
日野俊基
藤原の一家で日野氏を名のっている。名門顕官の出ではなかったが、後醍醐天皇は、そのすぐれた才能を認め蔵人に補したので、人々はその異例の昇進におどろいたという。
日野資朝と共に、鎌倉幕府を倒す計画に加わって、正中元年(1324年)6月に、六波羅に捕えられたけれども、そのときはゆるされた。
その後、右中弁にまで昇進したが、討幕の計画を再度すすめているうちに、またも露見し捕らえられ、関東におくられた。
太平記の巻二では、「俊基朝臣再び関東下向の事」と題して、
――落花の雪に踏み迷う、片(交)野の春の桜がり、紅葉の錦を衣てかえる、嵐の山の秋の暮、一夜を
明かす程だにも、旅ねとなればものうきに、恩愛のちぎり浅からぬ、わが故郷の妻子をば、行末
も知らず思い置き・・・・・
という美文調で、俊基が関東に送られる道すじを、哀愁のうちに書きつづっている。
鎌倉について、所詮は死を免れ得ぬと覚悟の日々をおくるうち、ついに最後の日となり、俊基は張り興に乗せられて、葛原岡の此の地に運ばれた。
俊基は、北の方が京よりはるばる送って来たという文に、しばし涙にくれたのであったが、ややあって心を正し、
古来の一句、死も無く生も無し。
万里雲尽きて、長江水清し。
の辞世を残して斬られたのであった。この俊基最期のくだりも、太平記巻二が哀切をこめて書いているので、ぜひ一読したところである。
葛原神社
俊基を葬る宝篋印塔のところから数段をおりると、広い草地の向こうに、ささやかな社が見える。南朝の忠臣として、鎌倉幕府の覆滅の直前に、悲憤の最期をとげた日野俊基を祀る葛原岡神社である。
明治20年に創建され、一時は別格官幣社への昇格の運動まですすめられたが、実現に至らず、戦後は心ある人々が詣でて、俊基卿の霊をなぐさめている。などと云う記述がありましたので、投稿いたします。