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佐竹屋敷跡についてNO39(南9)

2018-10-07 14:29:55 | 日記
 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 この所は、佐竹四郎秀義このかた、代々の屋敷のあとであるという。
 昔は、ここに佐竹氏の霊社があったが、後年になって、村内の天王社にいっしょにまつるようになった。
 後の山を佐竹山と呼んでいて、その形が扇の地紙に似ている。中に三本の疇(さかい)があって、左右をあわせると5本骨の扇の形にみえる。
(参考)
佐竹四郎秀義
 治承四年(1180年)頼朝が源家再興の旗あげをしたとき、同じく源家の出である佐竹義政(尊卑分脈では忠義)は、頼朝に味方せず、常陸(茨城県)にあって、むしろ頼朝の背後をおびやかす勢いを示した。そこで頼朝は富士川の合戦で平家を撃退するや、直ちに鎌倉に戻って佐竹氏討伐の軍を起こし、頑強に抵抗する義政を殺した。その甥にあたる佐竹秀義は奥州へ逃げたが、後になって頼朝に降服した。
 この地は、その秀義が鎌倉に居を得て屋敷をいとなんだところである。秀義がこの地を定めたのは、祖先にあたる新羅三郎義光が後三年の役のあと、ここに居をかまえたという故事によったのであった。

佐竹屋敷
 今、大宝寺のある地域一帯を、佐竹屋敷と言って、佐竹氏代々の居住したところと伝えている。うしろに見える山を佐竹山と呼んでいるが、山の形が扇に似ていて、左右のうねの間に、三すじのさかいを示すようなうねが見られるので、佐竹氏はこの扇の地紙をかたどって家紋にしたという。

釈迦堂口
 佐竹屋敷に入る小道を曲がらずに真直ぐ進むと、釈迦堂口に至るとある。
 この釈迦堂口は、杉本寺の前に通ずる道で、今は土崩れのおそれがあるので、車での通行はとめられている。
 鎌倉時代から、若宮大路と反対の裏道として南に通ずる近道として使われたようで、この釈迦堂口の近くには、北条時政の館が、さながら砦を思わせるように堅固に構えていた。
 頼朝の命をねらって捕らえられ、押しこめられたと伝えられる。「唐糸やぐら」も、この釈迦堂口すぐ上にある。
 今もなお、ひとりで歩くときは、気味の悪い欝蒼とした道であるが、崩れやすい岩を抉ってたくさんの「やぐら」のあることでも、一度は通って見たい道である。などという記述がありましたので、投稿いたします。

(佐竹屋敷跡の碑)

(大宝寺の釈迦堂)

(大宝寺の告知標)