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鎌倉の碑めぐりについて

2018-01-20 08:50:35 | 日記
鎌倉の碑めぐりについて
著者 稲葉一彦によると、鎌倉には大正6年(1917)以来、青年会、同人会及び友青会の方々が代々鎌倉の史蹟保存の志を受けつぎ、年々に建てふやしていった碑の数は、80に及んでいる。その多くの碑が、古き鎌倉を語りかけてくれているのに、鎌倉を訪れる人々の多くが、意外なほど気づかずにとおり過ぎで行くことは、まことに残念でならない。
史都鎌倉を正しく理解いただくためにも、また、鎌倉を愛し建碑の労をとってきてくださった先人の願いを活かしたいと念願して、この小著は生まれました。まとめとしては、一応「東コース」30基、「南コース」16基、「裏コース」11基、「西コース」23基と、四つに区分してありますが、いずれもJR・京急鎌倉駅を起点としています。という内容の記述とありました。
そこで、この(「鎌倉の碑」めぐり)に従って、東コースから、それぞれのコースNO1から紹介していきたいと思います。なお、区分は別添写真のとおりであります。


(東コースの碑のありかです。)
今回からの先ずは一番は、

 段葛について 東 NO1
「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の内容概要としては、
段葛は、別に置石(おきいし)とも呼んでいる。寿永元年(1182年)3月、頼朝が夫人の政子の安産を祈願して、鶴岡八幡宮の社頭から由比ケ浜の大鳥居のあたりにまでかけて築いたものである。この時、時政を始め源家の諸将軍は、こぞって土石の運搬に従ったという。明治の初年になって、現在この碑の立っている二の鳥居から南の部分をとりはらってしまった。
 建立場所 第二鳥居付近
 参考
 寿永元年3月15日の吾妻鏡は、鶴岡の社頭から由比浦に至るまでの曲横をまっすぐにして、参詣の道を造ったと述べ、さらにこの計画は、頼朝が日ごろから考えていたことであった。たまたま妻政子が数日前の3月9日に着帯の儀をおこない、頼朝にとっては、鎌倉に入り源家再興の中核に立つようになってからの最初の出産を待つ(すでに生まれていた第一子の大姫は、伊豆に配流の身の間の出生である。)という折であっただけに、政子の安産を祈願して、この大路造りを決断とたものであろう。さればこそ頼朝自ら監督し、男の北条時政以下東国武者の面々が競って土石の運搬にもあたるという、たいへんな力の入れ方であった。
 この道は、京都でいう、朱雀大路にもあたる鎌倉の中心的な道路であるが、後に千度小路とか、七度小道とも言っているし、若宮小路とも呼んでいたようである。
 「段葛」大路の中央に二列に堤を築いて、一筋の大路を三筋に分け、その堤の脚部を石で固めたので、中央の道は壇状に高くなった。そして土壇の両端には縁石(へりいし)としての葛石を置いたので、後世になって段葛と称するようになった。今も八幡宮に近いところに「置石」という呼び名が残り、「置路」「作り道」などとも呼ばれたらしいことによって、この段葛のかたちを想像することができよう。
 尚この段葛は、現在の二の鳥居(この碑の立つところで朱塗りの大鳥居のもとに、大きな狛犬がある。)よりも南へ長く、由比が浜まであったのが、次第に改変されて現在の500米たらずだけが、史跡として保存されている。
 注意深く見ると、この鳥居の地点での段葛の幅は八幡宮の直前に行くと、ずっとせばめられていることにも気づくであろう。
 最近の実測によると、500米ぐらいの直線の道の道幅(八幡宮前「2.9米」二の鳥居付近「5.1米」)が、2.2米の違いということは、決して偶然のこととは考えられないので、これについては、遠近法を取り入れているのだろうとか、いろいろの推測がたてられている。
 これについて大三輪龍彦氏は、鎌倉期に遠近法が用いられていたことは否定しないが、この段葛に適用したということについては疑問としている。というような記述がありました。

(段葛の碑)

(段葛 八幡宮を望む)

(八幡宮 第二鳥居)

(下馬から鎌倉八幡宮を望む)