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ビヤ坂起源について

2016-08-20 11:41:36 | 日記

 山手本道りに接する人墓地から、陣屋坂道を本牧方向に下りて行くと北方小学校が見えてきます。これをさらに進むと「麒麟麦酒開源記念碑」キリン公園がありましたので、「横浜山手変遷誌 著者 小寺 篤 制作発行 山手資料館」によると次のような記述がありました。
 北方小学校の隣に、「麒麟麦酒開源記念碑」の大きな碑が建っている。昭和12年に建設されたものである。この場所にビール工場のあったことをかたる。
 現在は、千代崎町にぞくしているが、山手居留地の時期には小学校の敷地を合わせて居留地番122・123番にあたった。その以前は北方村天沼泉の谷と称して、溜池を上にした水田が棚をなした谷戸であって、コープランドが自分の製造した商品ニスプリング・ヴァレー・ブリュワリのレッテルを貼ったのは、この付近の景観とともにその古い地名によったものであろう。
 彼は、幕末渡来欧米人名簿の中で、元治元年来日のアメリカ人の1人として名前がでている。彼は、ノルウェーでドイツ人醸造技師からビールの醸造を学んだことになっていて、日本へ来たのは36歳の時であった。
 甲府の野口正章がコープランドを招聘してビールの醸造をならったのは、明治5年であったという。そのことから、「大日本麦酒株式会社30年史」は、コープランドのビール事業開始を明治5年以前とし、「麒麟麦酒株式会社五十年史」もそれを明治2年から3年の間においている。
 慶応2年から明治7年の間の調査になる「外国人への貸地取調概表」には、山手122・123番は彼の名義になって居るが、これによってはその正確な時期は割出せない。
 とにかくこのノルウエー アメリカ人は、泉の谷といわれるその場所に湧く水に目をつけて、煉瓦づりの醸造工場を建設した。高くそびえる煉瓦煙の煙突が象徴的である。だが、この工場は明治14年ごろから行きつまった。
 「麒麟麦酒株式会社五十年史」によってその原因をみると、まず共同経営者のウイーガンドと仲違いをしたこと、コヘプランドに事業経営手腕がかけいいたこと、それにその頃の経済不況があげられている。そのはてに明治18年、事業はジャパン・ブルワリー・コンパニー・リミティドの手に移ることになる。
 コープランドは122番の自宅を改造してビホールをひらく。ビヤホールの先駆者ではあったが、これも成功にいたらず、あげくにハワイ、グァテマラと流れて行って、日本製品の販売に手を付けたのであったが、これもうまくいかず、いつに日本に舞い戻る始末となる。明治35年、すでに70歳の高麗に達していて、その年に永眠する。
 墓は、山手資料館向い側、外人墓地の鉄柵の近くにみられる。貝殻坂をのぼっていくある地点に十番館の建物を背景にした十字架の墓標を、はっきりと仰ぐことができる。
 北方小学校の前の道を、ビールの樽を積みこんだ馬車が毎日のぼっていった。そのために、ここがビヤ坂と呼ばれるようになっつた。関東大から震災の日には、崩壊した工場ビールが流れ出して、附近の人達はバケツを抱えて拾いに行ったものだという。
 そのころの古い地図には、溜池からひきつがれたビール用水の池が書き込まれており、今は北方小学校の片隅には、なお湧き出る泉が保存されて、ビール井戸となずけられている。

(北方小学校)

(小学校敷地内にある井戸)

(井戸の銘板)

(キリン坂道)

(同キリン坂道)

(キリン公園)

(麦酒記念碑)

(銘板)

(文化遺産の碑)