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ワシン坂について

2016-08-06 10:20:54 | 日記
 横浜の坂一覧図を片手に、小港バス停留所から根岸方向に歩いていくと交差点から、坂道を上がって行く
道路があったので、それを上って行くとワシン病院などがあったので、横浜山手変遷 著者 小寺 篤 制作発行 山手資料館によれば、次のような記述があまりした。
明治17年から32年までの間、谷戸坂通の町名をもった町筋は、谷戸橋をわたってから本牧十二天までの長い距離であったが、坂をのぼったすぐ左手の崖の下からは波音がかよってきて、房総の海を見はかす絶景の道であった。そのゆえに見晴通りの別名を称されるようになるが、丘の端が曲がり目の谷あいにワシン坂病院の白い建物が入りこみ、周辺には椎やけと思われるやきの大木がうっそうと茂って、ここは山手山村当時の自然林の面影を途止める場所と思われる。山手が居留地にされると知った農民たちは、てっとり早く自分の土地の樹木を伐りはじめる。これを知った外国人側は、あとで樹木の代償をするからと、伐採の中止を申し込んだいきさつがあり、思えばいま山手に古い樹木の姿が見られるのは、そうした事実の恩恵とも受け取れるが、それはともかく、この坂にワシン坂などという変わった名前がついたのは、どのような理由からであったのか、その定説がないままに、あれこれ思いまどうのである。
 ワシン坂の由来については、大略4つの説がある。
 一 和親条約によるという説
 二 ワシンさんが住んでいたからという説
 三 鷲の飛んでいるのがみられたからという説
 四 湧水、清水が外国人の口で転化したという説
この中、第一、第二は、音韻からの連想を根拠にしたもので、第三も実際に鷲が住つみいていたその姿が人々に親しまれ、「鷲見坂」となればこれも音に通ずる点では同様である。しかし、第四説は、結局は音韻に結びつかねばならないが、その説明が納得されるかどうかに問題がある。
 日米和親条約が締結されたのは、嘉永7年(1853)が安政になる年の3月3日、しかもその場所が横浜であったということから、「ワシン」に結びさけるのは容易である。だがここで問題になる点は、それが地名とされたのはいつのころであり、なぜこの坂が選ばれたのかということになる。
 時期の問題でまず考えられるのは、条約締結が記念されるのであるから、先ずそれが実現当時としなければならないが、そのころの山手のこの坂は、北方村の後に町名を泉と名づけられる地域で、現在の森林がもっとけわしく繁茂した山際の岨道であって、せいぜい農夫が丘上の畑地へ通う態のものであり、本牧十二天への参詣道といっても白昼でも狐が飛び出す有り様で、そのような地が記念の場所とされそうもない。
 また、ワシンさんという外国人の居留地の明治7年当時の「貸地取調概表」もない。第三の「鷲見坂」説は、それほどの詮索はいらない。大樹の林立があって、町名も林町となずけられていたが、しかし、それほどの深山というのではない。けれども鷲が住んだとしてもおかしくはないし、この坂の特徴にもなる。実際に鷲がいたかどうかにかかる。しかし、鷲が見えての鷲見坂が「ワシン坂」という展開はその限りでは信憑性を失わない。
 さて、第四のわきみず、しみずは、音韻の転化ということではもっともすっきりしない。この一帯が泉町と名づけられていたこともあり、それは林をとりまく丘の裾であって、現に坂の下にはゆたかな清水が湧いている。その事実の優位性はあらそえない。丘の上には、畑町と町名にもあるよう畑地があった。そこへ通うた農夫たちは、泉に立ち寄って一杯の水をむすび、手にした容を満たして坂を上り、そして帰りにはまた乾いたのどを潤した。その泉はその人達には掛替えのない生命の水であって、それだけにその湧き場を大切にあっかった。その伝統は今も受け継がれいて、コンクリートで固められながらも湧き続ける泉の上に、手のこんだ杉皮のさきかけを葺いて、水をまもっている。このような住民たちの感情が、ここに発する坂の名前は自然のうちに固定しないはずがない。それは単に普通名詞にとどまらなかったであろう。当然に湧き坂であり清水坂であった。地名というものは、勿論その場所がらにまるで関係ないところからは生まれない。そしてまた、その場所を利用する人間たちの感情になじまないものは定着しない。また付近の住民の意識に反するものでは、形骸だけのものになり消えてしまう。というような記述があったので投稿いたします。

(ワシン坂上り口)

(ワシン坂の標柱)

(山手の案内版)

(山手の案内版)

(ワシン公園入口)