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西洋理髪発祥の碑について

2015-07-09 15:47:20 | 日記
 今日は、山下公園にある西洋理髪発祥の地の碑を見に行ってきました。日曜日の為か老若男女が行楽を楽しんでいるのに加え、花壇には、紅白色とりどりのバラを始め、サルビヤ、マリーゴールドなどおなじみの花々に包まれた山下公園のほぼ中央付近の木々陰に、余り目立たないがよく見ると人の頭と顔を形ち取った西洋理髪発祥の地の碑が建立されていました。
 日本に西洋理髪を職業として開業されたのは、「横浜もののはじめ考」によれば、元治元年(1864)3月5日付け「ヘラルド」紙によると、横浜ホテルにサロンがオープンしたのは「経験豊富なヨーロッパ人理容師の経営だという。翌年10月14日号には、ファーガスンが横浜ホテルから51番のパーカーのスタジオ跡に移転という広告が出ているので、横浜ホテルで開業した理容師はファーガスンであったろう。
 元治元年(1864)年6月には、香港の「パリジャン・サロン」にいたユージエールも同6月25日に開業している。これらは、現在の理容室と美容室を兼ねたものだったと思われる。
 明治31年(1899)8月7日・14日号に「理髪の沿革」と題する記事だと思われるが、それによると、開港後、日本人の結髪師たちは、入港する異国船に「一挺の剃刀」を携えて出入りし、船員の顔を剃って「存外の金儲け」をしていた。なかでも、小倉寅吉、原徳之助、松本定吉、竹原五郎吉など7・8名は、時勢を察し、異国船で西洋理髪師を見習ってハサミの使い方を覚え、明治1.2年頃、「今の148番館即ち,俚俗支那(りようしな)屋敷(やしき)に散髪床」を開いた。「之を横浜に於ける日本人散髪業の嚆矢(こうや)とす」と述べている。
 雄小倉寅吉、松本定吉は横浜で、他の者は東京に移って仕事を続けた。竹原五郎吉は東京の結髪師の間で奪い合いになったと云う。
 「側面史」に収録されている「無名の一老翁談」は、開業の時期を明治2年、場所は「148番アコン宅の階下」なっている。明治3年(1870)版人名録によると、147番にペンキ職のAhQuamがいる。これがアコンだとすると、場所は147番でなければならないが、「時事新報」はアコンの名を挙げておらず、正確なとこは分からない。
 また、明治4年8月9日に断髪令が出た。西洋理髪業が本格的に始まるのは、やはりこれ以降になる。この年11月24日付け「横浜毎日新聞」には、「外国人より伝習仕、流行の西洋風薙髪撫附等相始候」という「洲干町ふぢどこ」の広告が出ている。
 「市史稿」は、桜木町に「西洋髪刈所」を開業した富岡浅次郎という人を「理髪業の嚆矢(こうや)」とする説のあることを伝えているが、詳細は不明である。また、「名譽鑑」の「高等理髪店・柴垣久太郎君」によると、先代の栄吉は、開港と同時に来浜し、文久2年(1862)に開店したという。
 しかし、最初から西洋理髪業を営んだとは記されていない。他の多くの理容師同様、古来の結髪業から洋風の散髪業に転じたのであう。となっており、何時から、日本人が西洋風の理髪業を開業したかは、明確な記述はなかった。

(西洋理髪発祥の地の碑) 

(西洋理髪発祥の地の碑のプレートの記述内容)

(氷川丸をバックにバラの花壇)

(美しのサンディエゴの噴水附近)

(山下公園からの横浜港後方はベーブリッチ)

(後方横浜桟橋方向)