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テニス発祥の碑について

2015-07-04 08:58:41 | 日記
 今日は、英国ウンイブルドンで錦織圭選手が世界ランキング5位で二回戦に進みながら左足ふくろはぎの怪我のため棄権となりましたが、日本でのテニスの発祥碑は横浜山手公園にありました。
 碑が建てられている場所は、港が見える丘公園から北西に歩くと程なく、横浜カトリック教会が見えてきます。この教会の丁字路に左入る山手公園入口と云う標識があります。ここを入って行くとテニス資料館への道標に従って150メートルほど行くとテニス発祥の地という碑が見えてきます。
 このテニス発祥の碑の横に、現在もコートが6面存在し市民が楽しんでいました。
 さて、「横浜もののはじめ考」によれば、慶応元年(1865)英国の陸軍第20連隊のブランント大尉を代表とするラケット・コート・クラブが設立され横浜山手127番にコートはあった。これは、ラケットを持った2人が壁にボールを打ち返し合うゲームで、近代テニスの前身とされるものであり、クラブは明治9年まで存在した。
 また、明治7年(1874)イギリスのウィングフィールドが、近代テニスに近いかたちのルールを作ったが、コートの形が中央でくびれたり、ネットの高さやコートの広も自由であった。これを1877年に、ジョーンズによって規則やコート・ボールなどの規定が現在のかたちに改良されて、全英選手権大会が開催さされるようになった。これが近代テニスの起源とされる。とあった。
 一方、「横浜のテニス100年」横浜市庭球協会発行によれば、テニスというスポーツが、わが国に伝来したのは明治3年英国人が、ミナトヨコハマに渡来した。現在山手公園(横浜市中区)になっている附近の山林を切り開き、そこにコートを作ったと記録されている。当時、この一帯は租界であったため、日本人はめったに近づけなかった。
 それは、コートを作るに当たって資材はもとより、人夫までも英国から連れて来る時代であったことから、テニスを身近に見聞した最初の日本人は、おそらくコートキーパーとして雇われた人であろう。とにかく、明治3年が日本におけるテニス事始めであり、発祥の地は横浜の高台であった。
 明治11年になって、租界地でのテニスを米国人リーランド教授から、東京高師(現在の東京教育大学)の学生に手ほどきして、高師を巣立ち、全国に散っていった。これがテニスの普及の夜明けである。しかし、ラケット及びボールは輸入品で高価なため、庶民には手がとどかなかった。そこで考案されたのが、わが国独自の軟式テニスであった。
 軟式テニスの考案は、普及という意味では決定的な出来事で、明治18年頃には、東京高師の外に、東京高商(現在の一橋大学)、慶応、早稲田などで盛んに行われ、テニスと云えば軟式を意味するようになり、全国津々浦々に広がって行った。言うなれば、日本流のテニスの元年といっても良いかも知れない。
 しかし、外国人居留地のある横浜、神戸、東京などの外国居留地には、硬式テニスクラブを次々に設立されて、明治17年には、横浜でも本格的なテニスクラブが出現した。と記述されていた。
 更に、「山手公園物語」有隣新書刊行の「テニスの全国への普及」では、明治30年代にテニスと野球ほど山間に至るまで全国に普及したスポーツ少ない。明治26年(1893)には、青森県、岩手県、山形県などの寒い東北地方にも、茨城県、徳島県、愛媛県などでもローンテニスとベースボールが師範学校付属小学校の遊戯にとりいれられている。
 田山花袋の小説「田舎教師」には、群馬県境に近い三田ケ谷村の教師となった青年がテニスをやる情景が書かれている。島崎藤村の「破戒」では、長野県飯山町の小学校でのテニスの様子が感動的に書かれている。
 当時、テニスは、女子学生に人気があり、ラケットをもって記念写真を撮ることが流行しり、山川菊栄、市川房枝など女性解放の先駆者達が、女学校の生徒のとき夢中でテニスをやったのも、明治30年代のことであった。
 また、軟式テニスは同じゴムボールを素手でやる野球と一緒に全国にひろまった。ローンテニスを庭球、ベースボールを野球と訳したように、イギリスとアメリカから別々に入ってきたこの二つの外来スポーツは、わが国では兄弟みたいなものになった。旧制一校では、一時庭球部と野球部が同一部で、1人が両方の試合に出たりしており、「しゃもじ踊り」の庭球と「すりこぎ踊り」の野球とは仲が良かった。
 硬式テニスは明治時代には、横浜の外国人クラブ、東京ローンテニス・クラブ、軽井沢クラブなどで行われる一部の上流社会のスポーツであった。しかし、軟式テニスの方が大正初期までは硬式テニスに替わって全盛で、「軟式テニス世界統一論」が新聞で論じられたり、「硬式テニス」は外国に尾尻を振る者達と非難されたりしたものであった。
 こうして「軟式テニス」は地元の小中学校からはじめ、庶民のスポーツとして地域社会のなかにしっかり根づいていた。野球クラブや硬式・軟式テニスのクラブが今日も地域で活動している事由である。と結んでいる。

(山手公園入口付近)

(山手公園)

(道標)

(テニス発祥の碑)

(テニスを楽しんでいる市民)

(当時のテニスウアー)

(日本初のテニスコート場所)

(右手前は当時日本の竹製のラケット)

(史料館でのラケットの展示)

(史料館でのラケットの展示)

(史料館でのラケットの展示)

「左奥にある仮面のようなものは、テニスの原型となった競技に使われていたグローブ型ラケット」(フランス500年ぐらい前)