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歌の橋(うたのはし)

2017-11-11 12:05:23 | 日記
歌の橋(うたのはし)
「鎌倉趣味の史蹟めぐり」著者 長峰五幸 によりますと、次のような記述がありましたので投稿いたします。
岐れ道を右手にとって、通称金沢街道を行くと間もなく関場橋があり、つづいて歌の橋、犬懸橋、華の橋などを通りすぎて、幅広く立派に舗装された道は十二所から朝比奈をめざしてぐんぐんと高まっていきます。
 関場橋は小田原の北条氏直の関所のあったところとして知られます。通行人の荷物を検査して、お金をとりたてるという。今日の税関と有料道路のゲートを一緒したにしたようなものでした。国宝館に残る当時の掟書によると、
 「徒歩五文、背負人十文、里人の往き来および僧侶はとらず」とあるそうです。
 歌の橋にまつわる伝説は、次のようなものであります。
むかし、渋川刑部(ぎょうぶ)六郎兼守という,文武両つながら優れた武士がおりました。何者かが企んだとみえて,幕府に弓を引くおそろしい謀反人との罪を着せられ、捕えられて刑場の露と消えるばかりとなりました。
 今はこれまで、と覚悟をきめたものの無実の罪で死んでゆくことは残念の極みですから、己の心を歌に托して、荏柄天神の社にささげました。
 当時の将軍は歌よみの名人として名高い右大臣源実朝でしたから、このことをきき、早速六郎兼守の奉った和歌十首を手にとってみました。
 今に伝わっていないので、秀歌というのではなく、関東武士らしい朴訥(ぼくとつ)きわまる歌であったのかも知れませんが,内容は真実味があふれていて実朝公をいたく感動させたのでしょう。早速無罪放免といたしました。順徳天皇の保元元年(1218年)のことと伝えられます。
 渋川六郎、こうして思いがけなく、この世に生き永らえることができたので、感謝の意を表すために、荏柄天神の横に流れる滑川の支流へ新しく橋を寄進したのです。
 歌の橋という文学的な名前の由来はこのようなものですが、肝心の歌がはっきり判らなくては、美しい伝説であるとしか言いようがありません。
 荏柄天神は大阪北野天満宮、九州大宰府天満宮とともに、日本三大天神として有名です。天神様は全国一万のお社に祀られ、「ここはどこの細道じゃ。天神様の細道じゃ。ちょっと通して下しゃんせ。御用のないもの通しゃせぬ。」という童唄によってあまりにも有名な神様です。
 ひと頃忘れられていたようですが、最近はメキメキとリバイバルいたしました。何故かというと、天神様・菅原道真公は学問の神様ですから、受験生と教育ママが熱心に信仰し再び隆盛になったのです。大阪府下の私立灘高校が日比谷高校を抜いて、東大進学率日本一をかちとったのも、実力プラス宗教的信念(あるいは精神力)によるものかも知れません。
 荏柄山の大銀杏の億にたたずむ朱塗りの社殿は威厳にみち、いかにも学芸の神の住まいにふさわしい場所と環境です。鎌倉市内の高校生諸君も、受験勉強の頭痛ハチマキの合間にここへ登り、ポンポンと拍手うって礼拝されるといいでしょう。いや、筆者がとやかく言わなくとも、荏柄天神社は多数の受験生とその父母が参拝しにぎわっているようです。
 菅原道真とは何者か.
 一体どういうわけで,天神様として祀られているのだろうか。彼は日本の学者の元祖の一人であり、一流の政治家として活躍し、右大臣にまで出世した人物なのです。
 平安時代の人であり、遺唐使によって学問文化がさかんに流入した時代の後半に、京都でも一流の学者(文章博士)の三代目として生まれました。
 次々と対策(今日の試験のようなもの)に合格し、33歳のときには文部次官クラスの地位と文章博士の位を得ましたが、そのためには嫁ももらわず、琴を習うこともやめたというほどですから、ずいぶんきついガリ勉をしたらしい。
 今日の博士コースにあたる方略試というのを受けたとき、さんざん苦しめられた道真は、そのときの試験官の都良香にたちまち追いついてしまったわけですから、内心大いに愉快だったことでしょう。
 なにしろ親代々の文章博士ですから、こうなると威勢は良くなります。祖父母以来の私塾である菅原廊下も引き継ぎましたが、これは当時の最高学府でしたから、天下の秀才がことごとく集まって、いわば東大と京都大学を一緒にしたようなものであり、彼はそこの学長になったというわけでした。
 35歳より55歳までの彼の活躍は目覚ましいものがありました。
 私塾の経営や講義、文章博士としての公的活動……たとえば、後輩に対する試験、諸願文の起草、作詩、唐の要人の接待。それから歴史学者としての業績があります。代表的なものとしては、「類譲聚国史」の編著。おそろしく綿密で科学的で千年も前の人の仕事としては驚異的なものであると、前東京大学史料編纂所長の坂本太郎博士は舌を巻いて、タイコ判を押しておられます。
 57歳のとき、突如として右大臣の顕職の座から彼はひきおろされ、九州の大宰府へ追いやられました。そのとき詠んだといわれる、
◎こちふかば におひおこせよ むめのはな あるじなしとて はるをわするな
の一首は「捨遺集」に載り、古今の絶唱としてあまりにも名高いものです。というような記述がありました。

(歌の橋の表示版)

(現在の歌の橋)

(橋の下を流れる川)

(歌集の碑)

(橋の近くの杉本観音)