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裁許橋(さいきょうばし)

2017-11-23 17:42:22 | 日記
 鎌倉西口から紀伊國屋前を左折して六地蔵へ出る途中で、徒歩5分位のところにある。第一回の勝の橋と反対の方角であるし、付近の様子も対照的に明るく、のびのびとした感じがする。
 この付近に大昔は間注所というのがあって、裁判所の原型のようなものだったらしいが、厳重なお取り調べの揚句「無罪放免!」となった囚われ人はほうほうの体でこの橋を渡って帰ったというので、裁許橋と名づけられている。道幅5.2メートル、橋の長さ3.3メートル、ランカンの長さは70センチである。
 川は佐介川。あまりきれいな流れではないが、町中の人がゴミを投げ捨てたりしないので、自然のまま、鎌倉時代のままの面影がある。
 今は、パトロール・カーや白バイにつかまっても調書に拇印を押して、ほとぼりのさめた時分に郵便局の窓口で罰金を払えば許されるが、昔の交通違反は(そんなことはめったになかった思うが、大名行列をみだしたとか、おさむらいに突き当ったとかいう場合)仲々罰金では済まなかったから恐ろしい。
 刑量の規定があいまいで、中間の刑や軽犯罪的なものがほとんどなく、三振かホームランか、いや死刑か無罪か、被告としては誠に不安なことだったろう。
 バッリとやる刑場の跡は六地蔵の近くだったので、六地蔵はその供養のために建立されたものと言われる。
 刑場の跡だと言うので、明治初年までは荒地のまま放置されており、飢渇畠と呼ばれていた。
 六地蔵からローン・テニスまでの、いかにも鎌倉風な裏通りを、独身時代の継宮明仁皇太子殿下は、葉山の御用邸からプリンスを運転して、毎日のようにコートへ通われた一時期があった。そのようなテニスの熱中ぶりが、やがて軽井沢で美しいお妃候補を発見するきっかけとなり、目出たく御成婚の後も二度お見えになったようであり、お二人のテニス姿を拝見しょうという殊勝な弥次馬で(筆者もその一人)付近はスーパーマーケツトのようなにぎわいであった。
 大正天皇の御用邸がこの付近にあったということで、現在の御成小・中学校や1964年施行の新町名はそれを記念するものである。
 「間注所跡」の史跡指導標は御成小の冠木門をすぎ、橋へさしかかる手前のT字路の角に建つ。
 大きな邸の角に食い込んで、建仁寺垣とその内部の竹やぶに貼りついたように立っていて、西日をよく受ける位置を占めている。文面は、
 元歴元年(1184年)源頼朝、幕府東西ノ厠ヲ以ッテ、訴訟裁断ノ所ト為ス。之ヲ間注所ト称ス。其ノ諸人群衆シ時ニ喧噪ニ渉ルコトアルヲ厩ヒテ、正治元年(1199年)頼家之ヲ邸外ニ遷ス。此ノ地即チ其遺蹟ナリ。鎌倉町青年会
 とこれだけある。当時も裁判所は、請願人や傍聴人のようなものが押しかけてワイワイとやかましかったらしい。そこで頼家は大倉の幕府からずっと離れたこの地へ間注所を移したということたろう。そして前述した通り罪人は六地蔵の近くで処刑され、免れた者はこの橋を通っていったので裁許橋と言う。
 ところが、江戸初期の記録である新編相模風土記稿では橋の名を西行橋と記している。この方が語呂がいいし、風土記の編者は、”信じがたし”と言っているがとにかく西行法師の伝説も伝わっている様子である。この橋の辺を、歌を案じながら一人の老僧があるいていた、それが西行法師であり、土地の人は何時からともなく、この橋を「さいぎようばし」と言いならわしたというのである。さいぎょ→西行と風土記の編者はまづ考え、いや待てょ、と思い直して、間注所の遺跡の近くであるからさいぎょは裁許であろう、とも考えたようであり記述にも迷いのあとが見える。
 頼朝のところへ西行がふらりと訪ね、京の土産話などして行ったのは事実である。(典拠は鎌倉郷土史のバイブル東鑑であるから間違いない)などというきじゅつがありました。

(裁許橋近くの鎌倉裁判署の表示版)

(裁許橋近くの御成門小学校)

(現役の裁許橋)

(現役の裁許橋がかかる道路江の島方向)

(現役の裁許橋の下を流れる川)