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公園坂について

2016-12-17 13:46:05 | 日記
代官坂の出口から山手本通を横切って箕輪坂に入り暫く行くと右に入る道があったので、行ってみると公園坂とありましたので、「横浜の坂 著者 小寺 篤 発行者 今野繁光によると次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 公園坂は、明治4年山手公園ができて以来の坂名であって、やがて明治17年にはそれが居留地の町名ともなった。1866年12月29日(慶応2年11月23日)英国公使パークスと早川能登守、水野若狭守との間に結ばれた「横浜居留地改造及競馬場墓地等契約」第10箇条によるので、まずそれを写すことからはじめる。
 居留地の東方に在る山手地所は、1ケ年百坪に付、12ドルラルの地租を払い、日本政府より外国人に、此の約定の日より3ケ月後貸渡すべし、日本政府は、右地面を公けの入札にて貸し渡し、如此して得る処の金を右場所の模様替に用すべし。
此約書に添うる絵図面(は)号に掲ぐる山手の地所、百坪に付6ドルラルの簾なる地税にて、公けの遊園として、外国人民の為に存し置くべし、右は此の約定の日より3月の内に、外国コンシュル等の手を経て、右の割合にて、右の割合にて願出べし。
 今其地に在る樹木を其間其儘にし置き且右地所を右に云う事に用いる時に至り、地所と倶に其樹木を其余の賃なしに譲るべきを、日本政府にて契約せり。
 ところがこの約書にきめた期間内において、領事より何の申出もなかったので、公園についての條項は消滅となった。それが明治2年の12月にいたり、米人ベンソン他3名が居留民の代表となって、約書の実施を要求してきたが、その地所はすでに貸付済であったので、妙香寺境内の地6,718坪を貸すことにしたが、築造費がかさむことから、日本政府の手でこれを経営することを求めた。しかし政府はこれをことわった。ところがその後になっても、外国側は地租を払わないでこれをわがもの顔に使用していた。そこで明治11年7月1日、居留外人の結成する横浜居留婦女弄鞠社という団体にこれを貸すことにきまった。地税150ドルこれがいまも存在してテニス・コートのままでいる。しかし、横浜インタナショナル・テニスクラブの手にある。これを「横浜百景」の筆者は嘆くのである。
 「此の公園には、市として欲しいものが直ぐ隣接してあるのは嬉な情けないような気がする。幾つかのテニス・コートが整然としてラケットの響きを待っているのがそれだ。市が此の公園を管理することになってから何年経ったか知らないが、お隣のテニス・コートを譲って貰はなかったのは手落だった。『犬入る可らず』と書いてある英文の立札が、何か知らくすぐったい風刺に思へぬでもない。」というのは、率直な市民感情である。などという記述がありました。


(箕輪坂からの入り口)

(入り口から階段を上がったところに 坂名の標柱)

(山手公園)

(公園内のベンチ)

(公園で遊ぶ親子)

(テニスの発祥の碑)

(テニスで遊ぶ市民)