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掃部山公園に行って

2014-11-01 16:07:57 | 日記

 今日は、テレビ、新聞の紅葉前線によれば、本年は、近年にない美しい紅葉が全国的に鑑賞できると報道されていますので、安直に行ける掃部山公園に決め出かけました。
 ここは、JR根岸線桜木町駅から、北西方向の坂道、その名も「紅葉坂」を上り、右に横浜文化会館がある手前の道を右に、200mほど行くと掃部山公園の入口が目の前に出迎えてくれます。
 行って観ると桜、ケヤキの木などが色ついていました。東南東の眼下に横浜港やMM21の街並みが目に飛び込んできて元気を貰った感じになりました。しかし、紅葉には若干早かったようであります。
 それでもお昼時と云うこともあって、公園の芝生の処には、修学旅行生か?一斉に弁当を広げて、楽しげに「わいわいがやがや」と話す生徒や弁当を頬張る生徒の顔(^^♪でありました。
 この公園の北側を下りて行くと日本庭園がありました。此方は、静かで池の周りにも市民がパラパラと紅葉を楽しむ人々や親子ずれの家族が、遊戯施設で楽しんでいました。
 さて、今回は、観風の目的の外に、井伊掃部頭直弼の銅像が建っているとネットで見たので掃部山(カモンヤマ)に来たのですが、銅像の大きさに圧倒されました。
 氏は、皆さんご存知のとおり、近江八幡の第15代播種として、また、幕末の江戸幕府 (大名が詰める席が、大廊下、大広間、溜間、帝艦間、柳間、雁間、菊間広縁の七つ間があったとされる、その間うちの溜間の上席の(「この間では、幕府の重要事について幕閣の諮問を受ける部署」)) の大老を務め、日米修好通商条約の調印に向け尽力されて、その結果、近代日本の発展の端緒つくったと云われていますが、当時、これに反対する勢力の反動を受けて、桜田門外で暗殺されてしまった。
 この井伊直弼の銅像でありますが、今回行って、案内標示を見たり・ネットで調べると幾多の経緯があって、それは、明治14年に旧「彦根藩有志」は、大老の事項に縁故深き横浜戸部町の一岡を掃部山と称して、ここに造園を施し、明治42年園内一角に銅像を建立し、大正3年園地とともに、これを横浜市に寄付され、その後、第二次世界大戦中に、日本政府による強制的な金属回収により、昭和18年に銅像は拠出撤去されてしまった。
 しかし、昭和29年開園100年記念祭の催の一環として、開園に由緒深き井伊直弼(井伊掃部頭直弼)の銅像が再健され併せて、掃山公園の整備をなされたと云う、今回の散歩で、幸運の銅像であったことを始めて知ることがでました。
 なお、井伊直弼公の藩主としては、藩政改革を行い名君と呼ばれていたようであります。これを湛え、彦根市の彦根城金亀公園に井伊直弼公の銅像が建っているそうです。
 最後に、この掃部山公園に隣接して、横浜能楽堂があり、堂内の見学が自由にみる事が出来ました。このことを申し添えます。

(公園の配置図)

(井伊掃部頭直弼象の正面)

(井伊掃部頭直弼象側面)

(井伊掃部頭直弼象背面)

(銅像の裏面の標記)

(銅像の再建の標記)

(日本庭園への路)

(日本庭園)

(日本庭園)

(遊具施設で遊ぶ親子ずれ)

(銅像前の広場)