後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本遺産、足利学校に入学し、国宝、鑁阿寺を見て来ました

2015年12月07日 | 日記・エッセイ・コラム
関東平野の北、栃木県足利市には日本遺産、足利学校と国宝、鑁阿寺があります。隣り合っています。昨日はこの両方を見て来ましたので簡単にご報告します。
足利学校は日本一古い学校で、ザビエルによって海外にも紹介された学校でした。創立は諸説ありますが、1432年(永享4年)に上杉憲実が足利の領主になって自ら再興したのが確実なことです。彼は学校の整備に尽力し,鎌倉円覚寺の僧、快元を校長に招いたり、蔵書を寄贈したりして学校を盛り上げたそうです。ザビエルが日本に来た頃は学生数が3000人もいて日本一の大学でした。
一方、鑁阿寺は1196年(建久7年) 足利義兼(戒名:鑁阿)が理真を招聘し、自宅である居館に大日如来を奉納した持仏堂、堀内御堂を建立したのが始まりです。1234年(文暦元年) 足利義氏が伽藍を整備、足利氏の氏寺としたお寺です。
昨日は足利学校に行き、入場料、420円を払ったら、いきなり立派な墨書き風の足利学校入学証をくれたのです。入学を許可されたのですから、この学校に責任を感じます。
そこでこの学校の教科内容を調べてみました。
面白いことに仏教のことは一切教えていません。それはお寺で習いなさいというのです。
教科内容は論語です。孔子の教えです。紀元前552年に生まれた孔子の教えをもっぱら教えていたのです。
その教えの始めの部分をご紹介します。
子曰。學而時習之。不亦説乎。有朋自遠方來。不亦樂乎。人不知而不慍。不亦君子乎。
(http://kanbun.info/keibu/rongo0101.html)
子(し)曰(いわく)、学(まなびて)時(とき)に之を習う。また説(よろこ)ばしからずや。朋有あり、遠方より来たる。また楽しからずや。人知らずして慍(いきどお)らず、また君子(くんし)ならずや。
◦子 … 孔子の尊称。
◦曰 … 「いわく」と読む。「のたまわく」と読んでもよい。送り仮名は「曰いわく」「曰わく」のどちらでもよい。
◦学 … 学問する。ここでは『詩経』と『書経』を読み、礼と楽がくを学ぶこと。
◦而 … 接続詞の働きをする置き字。「~して」「~て」と、直前の語に続けて読み、訓読しないことが多い。
◦時 … やれる時はいつでもの意。「ときどき」の意ではない。
◦不亦説乎 … 「またよろこばしからずや」と読む。「不亦~乎」は、「また~ずや」と読み、「なんと~ではないか」と訳す。詠嘆の形。
◦亦 … 語調をゆるやかにする語。「~もまた」の意ではない。「亦また」「亦また」のどちらでもよい。
◦説 … 「説」は「悦」と同じ、「よろこぶ」と読む。
◦有朋自遠方来 … 後藤点(後藤芝山しざんのつけた訓点)では「朋有り、遠方より来たる」、道春点(林羅山のつけた訓点)では「朋、遠方より来たる有り」と読む。なお、武内義雄は「有朋とも(友朋)遠方より来きたる」と読んでいる(『論語』岩波文庫、『武内義雄全集 第二巻』所収)。
◦朋 … 学問について志を同じくする友人。
◦自 … 「より」と読み、「~から」と訳す。
◦不亦楽乎 … 「またたのしからずや」と読む。詠嘆の句形。
◦人不知而 … 「ひとしらずして」と読む。人が自分の学徳を認めてくれないこと。
◦不慍 … 腹を立てない、不平不満をいだかないこと。朱注に「慍は怒を含むの意(慍含怒意)」とあり、「いからず」とも読む。また、説文では「怨也」とあり、「うらみず」とも読む。
◦不亦君子乎 … 「またくんしならずや」と読む。「なんと君子ではないか」と訳す。
◦君子 … 徳の高いりっぱな人。人格者。反対は小人しょうじん。
上のような文章は高校時代に習いました。懐かしいです。そこで足利学校で編纂した「論語抄」という本も買って来ました。日本人なら一度は聞いたことのあるような格言や文章が並んでいます。訳も分かりやすいのです。孔子はやはり卓越した思想家であったと改めて認識しました。
それでは昨日撮って来た写真でご説明いたします。

上は現在の足利学校の全景です。右側の大きな屋根の下に広い教室がありますい。左の方の建物は江戸時代に出来た孔子を祀ったお堂です。

上は足利学校の四方を囲んでいる堀の風景です。学校への入り口は橋になっています。

上は入り口を入った所にある校門です。

上は学校の校舎です。右の入り口から入ってゆっくり論語を筆で写す机があり数人の人が熱心に筆を動かしていました。

上は教室の裏にある庭園の風景です。

上は鑁阿寺へ入る橋です。鑁阿寺も四方が堀で囲まれています。

上は山門を入ったところの風景です。

上は国宝になっている1299年に作られた本堂です。
さてこの足利学校と鑁阿寺とは隣り合っています。両方を歩いて、ゆっくり見物すると2時間位かかります。
しかし日本遺産と国宝の両方が見られるのです。是非、足利市へお出掛けになられはいかがでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料============
(1)日本遺産、足利学校の歴史:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%AD%A6%E6%A0%A1
足利学校の創建年代については諸説あり、長らく論争となっている。
室町時代の前期には衰退していたが、1432年(永享4年)、上杉憲実が足利の領主になって自ら再興に尽力し,鎌倉円覚寺の僧快元を能化に招いたり、蔵書を寄贈したりして学校を盛り上げた。「能化」とは校長に相当する責任者であるが、江戸時代には「庠主(しょうしゅ)」と呼ばれるようになり、今日では「庠主」と呼ばれる事が一般的である[4]。その成果あって北は奥羽,南は琉球にいたる全国から来学徒があり、代々の庠主(能化)も全国各地の出身者に引き継がれていった。
上杉憲実は1447年(文安4年)に足利荘及び足利学校に対して3か条の規定を定めた[5]。この中で足利学校で教えるべき学問は三註[6]・四書・六経[7]・列子・荘子・史記・文選のみと限定し、仏教の経典の事は叢林や寺院で学ぶべきであると述べており、教員は禅僧などの僧侶であったものの、教育内容から仏教色を排したところに特徴がある。従って、教育の中心は儒学であったが、快元が『易経』のみならず実際の易学にも精通していたことから、易学を学ぶために足利学校を訪れる者が多く、また兵学、医学なども教えた[8]。戦国時代には、足利学校の出身者が易学等の実践的な学問を身に付け、戦国武将に仕えるということがしばしばあったという。学費は無料、学生は入学すると同時に僧籍に入った。学寮はなく、近在の民家に寄宿し、学校の敷地内で自分たちが食べるための菜園を営んでいた。構内には、菜園の他に薬草園も作られていた。
享禄年間(1530年頃)には火災で一時的に衰微したが、第7代庠主、九華が北条氏政の保護を受けて足利学校を再興し、学生数は3000人と記録される盛況を迎えた。この頃の足利学校の様子を、キリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルは「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記し、足利学校は海外にまでその名が伝えられた。ザビエルによれば、国内に11ある大学及びアカデミーの中で、最大のものが、足利学校アカデミーである。学校自体は、寺院の建物を利用し、本堂には千手観音の像がある。本堂の他に別途、孔子廟が設けられている、という。
(1)国宝、鑁阿寺:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%91%81%E9%98%BF%E5%AF%BA
寺号は詳しくは「金剛山 仁王院 法華坊 鑁阿寺(こんごうさん におういん ほっけぼう ばんなじ)」と称する。足利氏の氏寺。本尊は大日如来。
鑁阿寺はもともとは足利氏の館(やかた)であり、現在でも、四方に門を設け、寺の境内の周りには土塁と堀がめぐっており、鎌倉時代前後の武士の館の面影が残されている。
12世紀の半ばに足利氏の祖・源義康が同地に居館(足利氏館)を構える。
1196年(建久7年) 足利義兼(戒名:鑁阿)が理真を招聘し、自宅である居館に大日如来を奉納した持仏堂、堀内御堂を建立。
1234年(文暦元年) 足利義氏が伽藍を整備、足利氏の氏寺となる。
南北朝時代 鶴岡八幡宮の支配下となる。
1922年(大正11年)3月8日 「足利氏宅跡」として国の史跡に指定される。
2013年(平成25年) 本堂が国宝に指定された。
国宝の本堂 の説明:
入母屋造、本瓦葺き。桁行(間口)5間、梁間(奥行)5間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を指す)。正安元年(1299年)の建立だが、応永14年から永享4年(1407 - 1432年)に大規模な改造が行われ、この時に柱をすべて入れ替え、正面に向拝を付した。平面構成は前方2間分を外陣、後方3間分を内陣及び脇陣とする密教仏堂の形式だが、建築様式は禅宗様を基調とする。組物を詰組とし、柱に粽(ちまき)を設け、扉を桟唐戸、壁を竪板壁とする点などは禅宗様の要素だが、組入天井、板敷の床など和様の要素もある。密教寺院における禅宗様仏堂の初期の例として、また関東地方における禅宗様の古例として貴重である。平成25年(2013年)に国宝指定。