後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

何故、日本の仏教は葬式仏教になり下がったか?・・・ある住職のせつせつたる日記

2015年12月11日 | 日記・エッセイ・コラム
仏教はお葬式のためにあるのではない。人間の生き方や考え方を教えているのです。お釈迦さまの慈悲は生きている人、死せる人に等しく与えられているのです。
それなのに現在の日本の仏教はお葬式の時だけに人々の役に立っているのです。それを葬式仏教と言って多くの人が嘆いています。
そして寺院制度や住職の世襲制度が悪いと非難します。
葬式仏教に困っているのは実は住職も同じです。本来のお釈迦さまの教えを説こうとしても人々が聞こうとしません。お寺にはお葬式の時だけお世話になると決めているからです。
困っている住職である「桃太郎さん」が何故、日本の仏教が葬式仏教になってしまったかを日記にせつせつと書いています。本人の許しを頂いたので、その日記の抜粋を下にしめします。
桃太郎著、『破戒坊主』⑩:http://smcb.jp/_ps01?post_id=6338990&oid=463063
この小さな田舎寺でも 檀家数は300程有った。
住職になって、まずはそれを一軒一軒 全部回る。まるで 新任巡査の戸別巡回だ。
300軒の中には 家が途絶えたり 離散したり 住人が変わったり なかなか帳面どおりにはいかない。その変わった事実を確認することも 仕事の中に入っている。
だが 檀家組織が組まれているため 実際には訪問は村落の世話人宅だけで 大体の用事は済むことが多い。
前もって世話人に 訪問の旨 通知がしてあるから 世話人宅では 茶菓の用意をして 迎えてくれる。
念のいった世話人は の集会所や 大きな家に 檀家の人たちを集めて置いて呉れたりもする。
晋山式(住職としての新任式)や 披露目の宴に来れなかった人に 新しい住職の顔を見せ そちらはそちらで家族構成や代替わりの有り無しを報告すると言う。
当山では古くから行われて来たもので 起源は江戸時代の人別帳改めだと聞くが ほんとかどうか 俺は分からぬ。
幕府には 徴税や治安防犯の為に 戸籍を作る必要が有った。
そこで目を付けたのが 寺の過去帳だ。
過去帳には 檀家の家族構成や 生死の年月などが記録されている。これに着目した幕府の慧眼は おそるべしである。
寺が過去帳を差し出す事と引き換えに 寺領の安堵保全を約した。
より大量の過去帳を提出した寺には より大きな寺領支配権限を担保した。
鎌倉以来の先鋭的な仏教は 江戸に入ると次第に形骸化して行き 所謂葬式仏教と揶揄される 今の形に近くなる。
つまり 人間の魂の救済よりも 管理する墓の数を追い求めるようになっていく。
都市部は比較的早くに 寺々の縄張りが決まってしまう。すると 当然の事 教宣活動は 地方に延びる。
戦乱に荒れた地方には 無住の寺が溢れている。民衆も 葬式を挙げて呉れる坊主を必要としている。
幕府・坊主・民衆 の利害が此処に一致し 歴史に記されない 見えざる宗教戦争が 起きていたのだ。
が この戦争には 敵が無い。
無住の寺や 宗教的に未開の土地に ひと足でも早く行った者が勝つと言う パン食い競走みたいなものだった。
それに賢(さか)しく目を付けたのが 我が宗旨で 我が先達は主に東北地方に布教を進めた。
だから東北地方には もとは他の宗旨でも今は我が宗旨だ と言う寺が多い。
過去帳には 檀家の俗名はもちろん 死んだ者の戒名が記録されている。
『被差別民』と呼ばれた人々がいた。
京鴨川の河原で 牛馬の皮なめしを生業としていた人々だと言われる。死んだ牛馬の処理をするのだから 忌み嫌われたのかも知れない。
戦乱の世に遡れば 人間の死体を処理したり 場合によっては 敗者や罪人を斬首する役目を請け負ったりしたのが その人々の前身だった とも言われる。
俺はその辺りの事は 良くは分からない。大学の授業で聞きかじっただけだ。
被差別人は 死んでも普通の戒名が付けられない。
だが 穢れていても 清らかでも 人は皆死ぬ。
死ねば 葬り 経を唱えるにあたっては 何としても 戒名が要る。
そう考えて便宜上の戒名が付けられた。
凡そ 人間に付けられたとは信じられない 悲惨な戒名である。
お釈迦様の慈悲は等しいというがこれはいけない。
我が宗旨には 生真面目な先達が多かったのかも知れない。
そういった 差別的な戒名を記した過去帳が 後生大事に保管されていたのである。
そこで宗門が反省して、宗派を挙げて 過去帳を遡り 可能な限り墓を探し出し 新たな戒名を付け直して 供養すると言う 気の遠くなるような作業が行われたのは さほどの昔ではない。
それでそれらのホトケたちが 無事成仏したかどうかは 俺などの知るところではない。
葬式仏教は江戸時代の政治権力によって生まれた。それが今でも続いているのが嘆かわしいかぎりです。以下省略。
桃太郎さんの日記は葬式仏教の生まれたいきさつを明快に書いています。
彼は本山の永平寺で2年5ケ月間の修行をして住職になりました。2011年の東日本大震災の時には自分の寺に運び込まれた数百の遺体を大切に供養し、毎日お葬式をあげたのです。
その後は生き残った遺族たちを訪問し心を寄せ、生きる希望を与えたのです。
幸い流されなかったお寺を全国から来たボランティアの宿泊所に提供もしました。
彼は仏教の本来は葬式仏教ではないと説き、本来の教えどうり生きている人々の救済に努力しています。そして自分も一介の行脚僧として修行を続けています。
今日の挿絵の写真は彼が住職になる前に修行をした曹洞宗の大本山の永平寺の写真です。
なお曹洞宗はどのようにして出来たか?何故、大本山は福井県にあるのか?などは末尾の参考資料にあります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真の出典は、http://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=25980002926&GroupCD=0&no=です。

2番目の写真の出典は、http://zen-eiheiji.jp/event/entry-89.htmlです。

3番目の写真の出典は、http://fukuinavi.jp/?p=2027です。

4番目の写真の出典は、http://teishoin.net/blog/002694.htmlです。

5番目の写真の出典は、http://choukokuji.jiin.com/index.php?soudouです。
=====参考資料==========
何故、曹洞宗の開祖、道元が福井県に大本山の永平寺を1246年に作ったか?
:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E6%B4%9E%E5%AE%97
(1)曹洞宗の出来上がったいきさつ
曹洞宗の宗祖道元は正治2年(1200年)に生まれた。父は村上源氏の流れをくむ名門久我家の久我通親であるとするのが通説だが、これには異説もある。
幼時に父母を亡くした道元は仏教への志が深く、14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。道元には「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、本来悟っている(本覚思想)はずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問があった。道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺の栄西に教えを請いたいと思ったが、栄西は道元が出家した2年後に、既に世を去っていた。
(2)道元の中国留学:
比叡山を下りた道元は、建保5年(1217年)建仁寺に入り、栄西の直弟子である明全に師事した。しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考えた。師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。
道元は天童山景徳寺の如浄に入門し、修行した。如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」を強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。なお、一緒に渡宋した明全は渡航2年後に現地で病に倒れ、2度と日本の地を踏むことはできなかった。
(3)何故、福井県に大本山を作ったか?
日本へ戻った道元は初め建仁寺に住し、のちには深草(京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。
旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、道元は信徒の1人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。寛元元年(1243年)のことであった。
当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここでひと冬を過ごすが、翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立する。これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。
寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝のときの元号「永平」からであり、意味は「永久の和平」である。
永平寺は、普通の寺院とは違い、檀家制度はありません。世俗と離れ、日々黙々と200人〜300人の雲水【うんすい】=修行者が修行しております。その多くは住職になったり行脚僧になるのです。以下省略。