後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

私が住んでいる場所の旧石器時代(無土器時代)からの歴史

2015年12月06日 | 日記・エッセイ・コラム
私の郷土史は「素人の想像をまじえた郷土史」という意味です。郷土史として取り上げるのは東京都小金井市とその隣の小平市や府中市の歴史です。特にこの私の郷土史では約3万年前の旧石器時代(無土器時代)からの歴史を詳しく調べました。
全国のあちこちの郷土史の多くは甲斐国、信濃国、武蔵国などの律令国家の成立以後の歴史を取り扱っています。しかし私はもっと遡って古墳時代、弥生時代。縄文時代、無土器の石器時代と調べて行きました。
それではまず私の住んでいる小金井市のご紹介から始めます。

上の写真はJR中央線の武蔵小金井駅の南口です。東京駅から乗り換えなしで45分です。新宿からは30分です。

上の写真は北口を出て上野原通りを西の方を見た風景です。この写真の左には上野原公園があり、写真の上野原通りをもうすこし西に行くと自宅が」あります。

上の写真は小金井市の北にある都立小金井公園の入り口の道路です。

そして上の写真は小金井公園中央広場の脇にある花壇の写真です。

上の写真は小金井市の南端に東西に延びている都立武蔵野公園です。
これらの写真のような風景は旧石器時代や縄文時代には見られませんでした。あたり一帯はクヌギやカシワやコナラのような雑木林が昼なお暗く覆っていたのです。そしてその森の中にはイノシシやシカやキツネやタヌキが沢山棲んでいたのです。
森の切れる開けた土地には石器時代や縄文時代の竪穴住居が散在していたのです。人口が現在より非常に少なかったので食料にするイノシシやシカを落とし穴で捕らえるのは簡単な事でした。夏や秋になると野生の果物や栗やクルミも豊富に実ります。人口は少なかったので食べものに困ることは少なかったのではないでしょうか。
さて小金井の中町には3万年前の旧石器時代の石器と4500年前の縄文時代中期の環状集落跡が出土した「中山谷遺跡」があります。
縄文中期の環状集落跡から2m50cm下の約3万年前の関東ローム層から多数の石斧、鏃や石器道具が出て来たのです。ですから現在の小金井市には約3万年前から人間が住んでいたのです。
そして約4500年前の環状集落跡を見ると家々が広場の周りに建っています。そして広場の中心が墓地になっていました。
住居跡からは多数の土器や石器や耳飾りが出てきました。
そして住居の土間の下からは亡くなった乳幼児を入れて葬った埋甕が完全な形で出て来たのです。乳幼児が死ぬと悲しくて家の外に葬ることが出来なかったのです。
この「中山谷遺跡」は小金井市の古代の歴史を物語る貴重なものですが、残念ながら展示施設がありません。
そこで隣町の小平市の展示室を何度も訪問しました。
小平市の鈴木遺跡資料館は感動的な展示をしています。
素人の小生が感動したことが2つあります。
(1)発掘した地層の断面模型の展示があり、その横に各地層から出てきた旧石器時代のいろいろな石器が示してあるのです。
地層区分から出てきた石器の作られた時代が厳密に分かるのです。大変明快な展示方法です。その地層の中には鹿児島湾北部の姶良火山が爆発して飛散し、火山灰が積もった第VI層も有るのです。
旧石器時代の35000年前から12000年前(新石器時代)までの石器が時代ごとに区分してガラスケースに展示してあります。そして縄文時代、すなわち新石器時代の石器も縄文土器も展示してあります。石器はどれも精巧に加工してあります。
この展示室の素晴らしさはその黒曜石で出来た鋭利な石器のその精巧さにあります。そして時代推定が科学的に厳密なことにあります。
(2)この資料展示室で感動するもう一つの理由はこの小平市の鈴木町の歴史の変遷が見事に説明してあることです。
元来、この一帯は窪地になっていてその西端に泉があり広い池があったのです。現在の石神井川の源流だったようです。シカやイノシシが集まる絶好の狩猟場だったのです。その理由で旧石器時代から人間が狩猟場にしていたのです。
しかし縄文時代の後期頃ころからこの泉が涸れ、石神井川もずっと東方向に移動してしまったのです。縄文時代の後期には土器や石器は見つかっていますが、住居跡は見つかっていません。その縄文時代の後からは人間の住んだ痕跡が絶えてしまうのです。
わずかに近辺に奈良時代のものと推定される竪穴住居跡が小平第八小学校の校庭から見つかっています。
ですから小平市の鈴木町には平安初期以後人家が絶えてしまったのです。それが数百年後の江戸時代にまた人が住むようになったのです。1654年に玉川上水が出来たことも農業がしやすくなりました。
鈴木遺跡の周辺にも江戸中期の1732年頃から次第に鈴木新田が出来のです。それが現在の鈴木町です。
いろいろな鈴木新田の遺物が残っていますが、特に「定右衛門水車」は有名な水車で明治41年まで動いていたそうです。その江戸時代の陶磁器も多数展示してあります。
このような遺跡の定点観察のおかげで小平市の鈴木町の人家がどのように変遷して行ったかが明快に分かるのです。
この事実は私にいろいろなことを連想させます。日本の地方、地方の歴史は決して連続していないで人家が絶えた時代もあるのです。もちろんそれは地方によりますがこの事実は興味深いことです。
現在、日本の各地で起きている過疎化は長い歴史では繰り返して起きていたのかも知れません。この鈴木資料展示室はいろいろな問題を考えさせる展示です。
なお詳しくは小平市教育委員会編、「鈴木遺跡―解説―」平成7年3月31日発行、をご覧ください。
なお参考までに、近辺の所沢市の砂川遺跡から出土した旧石器時代の石器の写真をお送りいたします。

上の写真が砂川遺跡から出土した旧石器時代の石器です。
写真の出典は、http://www.google.co.jp/imgres?q=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%97%A7%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3&start=97&hl=ja&sa=X&tbo=d&biw=964&bih=550&tbm=isch&tbnid=9cFlKv7RtInbsM:&imgrefurl=http://www.ranhaku.com/web04/c1/2_02.html&docid=-ycVjtYXFXksxM&imgurl=http://www.ranhaku.com/web04/c1/2_02sekki-s.jpg&w=475&h=317&ei=R17RUNjzL-qOmQWYzID4Ag&zoom=1&iact=hc&vpx=643&vpy=200&dur=207&hovh=183&hovw=275&tx=201&ty=102&sig=101447057814816231306&page=6&tbnh=144&tbnw=240&ndsp=22&ved=1t:429,r:13,s:100,i:43です。
砂川遺跡は、所沢市で最初に発見された旧石器時代の遺跡です。
明治大学考古学研究室によって行われた遺跡調査では、石器類の出土地点の全記録と出土した石器類の接合という作業が初めて試みられ、ナイフ形石器等の製作工程が明らかとなりました。また、当時の人々が常に石を携行して移動し、そこで石器を作ったり、他の場所で作ったものが持ち込まれたり、他の場所へ持ち去ったりするなど、人々の生活や動きが実証され、日本の旧石器時代研究に大きな成果をあげました。
出土した石器類は、「埼玉県砂川遺跡出土品」として国の重要文化財に指定され、明治大学博物館に所蔵されています。

上の写真は有名な岩宿遺跡から出た約3万年前の旧石器です。
(出典は、http://www.city.midori.gunma.jp/iwajuku/pemranent-ex.htmlです。)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)